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高知学117 紀伊半島の山村を訪ねて高知と比べる(その2)

高知県には六つの村、奈良県には七つの村があります.

四国にせよ、近畿にせよ、他の県では村がないか、あっても一つくらいです.

高知、奈良はイメージと違って山国であり、どうしても自治体が小さな単位になるのでしょう.

紀伊半島に村を訪ねます.

その1では、奈良県、吉野から国道169号線を南下して三重県まで来ました.

その2では、三重県、飛び地の和歌山県から再び奈良県に入って168号線を北上します.

 

2019年11月5日 最終版

 

 

1.三重県熊野市

 

(熊野市 桃崎)

 

三重県に入って桃崎まで来た.

60年以上前、友人と川沿いを歩くためここに来て泊まって、山奥の寂しい夕暮れだなあと思った.

海岸の熊野市まで20kmもないのだが、いま過ぎてきた川上村や上北山村と比べて廃屋が多く、一層寂しい.

「第三相互銀行」の支店跡がある.

こんな山里に?と思われるかもしれない.

しかし昔この辺りは、山持ち、林業、製材業者などで盛大に資金が動いていた.

支店長、行員が忙しく立ち働いていた姿を思い浮かべるのも難しいのだが.

紀伊半島の現状は、とりもなおさず林業の衰退を反映している.

 

2.北山村

 

(七色)

 

飛び地の和歌山県北山村に入る.

昔来たとき同宿の登山家に誘われ、筏に便乗して川を下った.

急流では筏に結ばれた綱を握って越えるが、腰まで洗われる.

流れが緩くなると寝そべって空を仰ぐ.

今はダムがあるが、下流は昔の姿である.

 

(北山川)

 

河畔の温泉宿に泊まる.

ここは昔、銅鉱山の選鉱場があったところで、採掘の坑道は山の向こうであり、トンネルを通って蓄電池機関車が鉱石を運んでいた.

その「人車」が復活されて乗ることができる.

坑道のところにも温泉があり、往復乗車券と入浴手形が一緒になっている.

片道10分ほどだが、車にばねというものがないので、突き上げる衝撃で十分に堪能できる.

昔の坑道は椎茸の栽培に利用されている.

 

(鉱山列車)

 

この辺り、断崖と深い淵が続く瀞八丁である.

「瀞ホテル」の旅館があり、何回も泊った.

崖に張り出す三階建ての贅を尽くした木造建築で、これも当時の林業の賑わいを物語っている.

 

(瀞ホテル)

 

かつては道がなく、川を船で行くしかなかった.

いま旅館の営業はしていないが、昼にカフェをやっている.

 

3.十津川村

 

169号線から168号線に入り、十津川に沿って北上する帰り道になる.

 

(十津川)

 

十津川は川幅が広く、砂利の河原が特徴である.

水深がないので船はスクリューが使えず、古い飛行機のエンジンでプロペラを回して推進するプロペラ船であった.

極めてやかましいが早いわけではない.

 

(2011年の十津川村崩壊地、実害がないので放置?)

 

なぜこのような石の河原になっているのか.

川はもともとV字谷であったという.

そこを深層崩壊した岩石が埋め、そして流され、小石に砕かれ磨かれ、今の姿になっている.

深層崩壊は、よくある地表面の保水力が無くなり、2mまでの浅い深さで滑る表面崩壊とは違う.

地層の深いところにあるクラック、歪の大きい地帯まで水が浸入して大規模に崩壊する現象である.

十津川の歴史に残る大災害は1889(明治22)年である.

時間雨量1,300mmの豪雨によって1,000個所で崩壊が発生し、土砂が川を埋めてダムとなり、さらに決壊することで被害を拡大した.

このとき最大で30m川底が高くなった.

住居、田畑、山林は完全に消滅し、住民は生きるすべがない.

移住が決意され、たった3か月後に2,700人が北海道の未開拓地に移った.

今の旭川近くにある新十津川である.

3か月後といえば11月で北国は冬、去るも地獄、残るも地獄であったことは想像に難くない.

 

(川上村の崩壊地)

 

類似の気象配置が120年後の2011(平成23)年に発生した.

恐れられた深層崩壊と河道閉塞を生じたが、1889年レベルに達しなかったことは幸いである.

北山川筋でも起きている.

8年を経過し新道が完成している.

深層崩壊地は地形的、地質的に推定が可能とされ、国交省より危険度マップが公表されている.

高知では吉野川流域の一部が入っている.

地域には予測のため各種のセンサが設置されているとのことだ.

 

4.十津川を遡る

 

 

 

(熊野本宮大社前)

 

熊野大社は平安の昔、山奥にある浄土への入口と理解され、遠く都から上皇、女院が参詣した.

その後も「熊野古道」から訪れる人たちが「蟻の熊野詣」というように絶えなかった.

本宮は1889年の災害で流出し、高台に移っている.

大社前の道路は、山の中だが電線が地中化され「観光地」らしい.

これまで通ってきた村々は、廃屋もあるが昔の「寒村」の惨めな面影はなく、道の駅や温泉などブラッシュアップされている.

日本の「田舎」は姿を変えたのだ.

 

(谷瀬の吊橋)

 

谷瀬(たにぜ)にある吊橋は1954年につくられ、長さ300m、高さ54mで、幅80cmの板を渡る.

どこまで行ける?

しかしこの橋は、明治の災害でこれより下の住居が流され、残った高台の家々を結ぶために設けられている.

 

(下市から)

 

山峡を抜け下市(しもいち)に出た.

出発の八木は近い.

大阪との境になる金剛山と葛城山が見える.

神武天皇は宮崎を出て、八咫烏の導きによって海と山を通りこの地に至った.

古事記、日本書紀によると紀伊山地を縦断したとのことだ.

 

(おわり)

 

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116 紀伊半島の村を訪ねる(その1)

110 八畝の棚田スカイライン

2019年10月31日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

高知学116 紀伊半島の山村を訪ねて高知と比べる (その1)

高知には六つの村があります.

しかし四国では愛媛、香川には「村」がなく、徳島に一つあるだけです.

関西では大阪、京都、和歌山に一つづつで、兵庫にはありません.

しかし奈良県には七つあります.

和歌山で一つの北山村は、全国でただ一つ県の区画で飛び地になる自治体であり、和歌山の区域にはなくて奈良県と三重県の中にあります.

昔、付近の材木は筏で熊野川を下り、河口の和歌山県新宮に出していたのでその結びつきが強いのでしょう.

一度、飛び地状態を解消するかどうか住民投票を行ったところ、否決されたということです.

 

(橿原市から.山の向うは大阪)

 

2019年10月28日 最終版

 

1.高知と奈良

 

小さい単位の「村」が残る方がよいのか、合併して「町」になる方がよいのか、これはいろいろだ.

いずれにせよ、「村」に関して高知県と奈良県は似ている.

奈良というと鹿が遊ぶ東大寺や春日大社を思い浮かべるが、これは北のほんの一部で、大部分は修験道の行場でもある深い山である.

また、高知というとカツオやクジラが遊弋する海のイメージだが、その83%は山である.

両方とも山国なのだ.

 

(奈良県・伯母峰峠から)

 

高知県で最小の村、大川村は2019年現在で人口385人.

奈良県で少ないのは、野迫川村361人、上北山村427人で、飛び地の北山村は432人である.

多い方は十津川村3,165人で、高知学115 に記した高知県芸西村3,714人と近い.

しかし人口密度となると、平方km当り十津川村4.7人、芸西村93.8人と、奈良が格段に「過疎」である.

十津川村は奈良県の18%の面積を占めているのだ.

 

2.紀伊半島の縦断

 

明治時代に紀伊半島を縦断する鉄道として、紀の川沿いの五条から海岸の新宮まで、五新線が計画された.

まず五条から20kmほどの区間で工事が始まったが、結局1980年に中止され、縦断には道路しかない.

道路は最高峰1,900m余りの大峰山脈を挟んで、東の伯母峰峠から北山川を通る国道169号線と、西の天辻峠から十津川を通る168号線がある.

山間部に向かう拠点は橿原市の八木である.

そんなところ知らない?

いやこの辺りは、平安時代の京都、奈良時代の奈良よりさらに前、飛鳥時代の日本の古都なのである.

なにしろ神武天皇の御陵があるのだ.

 

(桜井線 畝傍駅)

 

皇族方が橿原神宮参拝で利用した畝傍(うねび)駅が風格を保っている.

 

(上市.近鉄特急)

 

高知と肩を並べる紀伊半島を訪ねたい.

縦断にはバスがあり、169号線の方は昔、途中で2回乗り換えがあったが、吉野山対岸の近鉄・上市(かみいち)から太平洋岸の熊野市まで行くことができた.

今は通院などの目的で、沿線自治体が共同運行するコミュニティバスが一日一往復である.

2時間余りかかって奈良と三重の県境まで行くのだが、その先三重県熊野市方面が繋がらない.

調べた結果、1泊して翌日北山村のコミュニティバスを利用すれば縦走可能らしい.

しかし泊まるのも問題で、付近にキャンプ場のバンガローがあるが、夏だけである.

今なお厳しいルートなのだ.

一方168号線十津川の方は、五条・新宮間、5時間ほどかかるが一日3往復の「特急バス」がある.

沿道人口もやや多いが、本宮大社や温泉などの観光地があるためだろう.

レンタカーを利用して169号を行き、北山村で一泊して168号を戻る.

 

3.川上村

 

(川上村・役場)

 

169号線を吉野川に沿って山に入ると川上村である.

どこの村も役場、道の駅、温泉ホテルがワンセットになっている.

 

(川上村の旧道)

 

今はほとんどの区間がトンネル、拡幅などで改良されているが、昔の道は狭かった.

軒先すれすれにバスが通るが、材木を満載したトラックで出会うと、車掌さんの笛の誘導でバックする.

 

(川上村の旅館)

 

年間雨量4,000mm以上で日本一の多雨地帯である高原の大台ヶ原、続く大杉谷は関西の代表的な秘境登山ルートである.

かつては麓の旅館で泊って登ったのだが、今はドライブウェイがある.

 

4.上北山村

 

吉野川が終わり、北山川の上流に出るには970mの伯母峰峠を越える.

屈曲が激しく難渋する道であったが、今は長大トンネルとループ橋が出来ている.

下ると上北山村である.

 

(上北山村)

 

イベントをやっていた.

屋台があり、ピザの車があり、なかなか賑わっている.

人口を調べるとき、男女別を見た.

どこの自治体でも女性が多いのが普通で、住んでいる高知の町もそうである.

女性が長寿だから.

しかし上北山村だけが違って、男性が多い.

 

(祭りのライブ)

 

一角でライブをやっている.

前の方に陣取って手拍子で盛り上がっているのは老婦人たちである.

老男性はもともとこういう場にはあまり出ないが、男性優位の村ならもっといてもよいが.

つかぬことながら、世話役をしている男性に訊いてみた.

「男が多いとはあまり感じませんがね」という答えであった.

 

5. 人口予測

 

村には「やまゆり学園」がある.

何か私立の学校のようだが、保育園、小中学校一貫の施設である.

全校で10名とのことだ.

 

(やまゆり学園)

 

2019年、上北山村にとって衝撃的な内容を含む書籍が出版された.

河合雅司:「未来の地図帳」、講談社現代新書、である.

2045年に本村では、20-34歳の出産期女性人口が一人になるという.

仮に二児を出産しても高齢者の死亡数には到底追いつかない.

これは国立社会保障・人口問題研究所が公開している、国勢調査を基にした「日本の地域別将来推計人口」によっている.

将来の推計は過去のデータの統計的処理から算出しているので、今後の地域情勢の変化などによって数値は変化する.

やまゆり学園の現在の生徒数は10人、保育園から中学まで20年後の女児はみな出産期になるから、男女半々として5人、地元に半分残るとして2.5人ということになるが.

高知県大川村の同様の推定は6人である.

 

6.下北山村

 

(下北山村、池原)

 

昔はバスを乗り継いだ下北山村、スポーツ公園を見下ろして山を越えると三重県熊野市に入る.

 

(その1 おわり)

 

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103 高知の秘境、海と山

80 早明浦ダム、元鉱山町の大川村

2019年10月24日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

高知学115 高知の村2  高知県凝縮の芸西村

芸西村は高知市から室戸岬に向かう途中にあり、太平洋に面しています.

人口は3,700人ほどで、高知の六つの村の中で、日高村に次ぐ多さです.

村の構成は、海岸部、農作地帯、山間部に分けられます.

高知県の構成を凝縮したように感じます.

なぜ村なのか、2006年、いま住んでいる夜須町を含め周辺町村が合併して香南市ができたとき、芸西村も参画していましたが実現しませんでした.

合併した夜須町、合併しなかった芸西村、13年経ってそう差はない気はしますが.

 

2019年9月22日 最終版

 

1.琴が浜

 

 

海岸を土佐くろしお鉄道、ごめん・なはり線が通っている.

東の奈半利から後免に出て、JRに乗り入れ高知に向かう.

芸西村にある西分駅で、外国のご婦人が二人、列車を待っていた.

高知へ行くのだそうだ.

丘の上に高層の観光ホテルがあるので、そこから歩いてきたらしい.

帰りは暗闇になるが、ホテルの明かりはよく見えるから迷うことはないだろう.

 

(西分駅)

 

昨日は白衣の外国人お遍路さん二人が待っていた.

 

(ホームから)

 

「海に近い」として予讃線の某駅が喧伝される.

しかし前を国道が通っているので、いささか感興がそがれる.

西分駅は、波の音と松を渡る風しか聞こえない.

 

(琴が浜)

 

前は5kmに渡って延びる琴が浜で、10cmくらいの大きさの小石の浜である.

波によって浜のかたちは大きく変わる.

何年か前の台風では、手前の砂利がすっかり流され、左の岩の下が深い淵になって、浜に下りることができなかった.

その後次第に砂利が積み上がって、今の形になっている.

 

2.農作

 

(和食駅から)

 

和食(わじき)駅から芸西村の中心部を見る.

底辺3km、奥行2kmの三角形の平地になっている.

芸西の最奥の集落は、向こうに見える山の先だ.

 

(ハウスの列)

 

農業はほとんどナス、ピーマンなどのハウス園芸である.

石油は暖房のほか、燃焼による炭酸ガスによって成長促進が行われる.

エアコンも使われる.

 

(ブルースター)

 

青色の星形の花を咲かせるブルースターは特産品である.

成長を制御するため夜間に灯りをつける.

野菜も花も直販市で安く手に入る.

 

(山道から)

 

芸西村の農業で問題は水である.

大きい川がない.

そのため山間に溜池が多く作られている.

狭い山道を上って、標高300mの山頂近くにあるジルゾウ池まで行ってみた.

 

(山上の水田)

 

山の上に水田があるのは、この池のおかげだろう.

 

(ジルゾウ池)

 

かなり広い池だが、水は澄んで幽邃な雰囲気が漂う.

 

3.最奥の集落

 

芸西村の山奥には、孤立した小さな集落が点在していた.

薪炭の生産が中心と思われるが、山肌を切り開いて田畑もつくられていた.

しかし町から直線距離でも8kmはある山の暮らしは厳しい.

そのため、1960年代から集団移転が取り組まれてきた.

消滅した集落は、板淵、大屋敷、ウルシ、シレゲなどである.

 

(久重)

 

久重(くえ)、白木山、道家(どうけ)は残っていて、コミュニティバスが運行されている.

以前は29人乗りのバスだったそうだが、2017年に乗ったときは、12人のバンが週2回、2往復であった.

今は5人乗りのレガシイで、要望のあったときに動くデマンド運行になっている.

海岸から何もない山道を30分かかって辿り着く山の中はやはり厳しいのだ.

久重が山の集落の中心点で、今は廃校になっている小学校があった.

傍に地域の戦没者の慰霊碑がある.

日露戦争では5名、大東亜戦争では15名の名が刻まれている.

戦死率は時期、戦地で異なり、玉砕ということもあるが、平均的に10%程度とみなされている.

そうすると、この土地から150名が出征したのだ.

 

(道家の氏神)

 

山のほとんどの集落は狭い尾根や谷間にあったが、道家は小川に沿って長く伸びる平地である.

水田が広がり「兎追いし…小鮒釣りし…」の風景であっただろう.

「村の鎮守の神様の 今日はめでたいお祭り日 ドンドンヒャララ…」でもある.

小学唱歌ワールドなのだ.

今は耕作放棄地だけで「田園まさに荒れなんとす」である.

 

 

4.芸西の住まい

 

高知県は海のイメージであるが、海の見える宅地は意外に少ない.

渚に近いと防波堤が邪魔するし、津波の心配もある.

崖の上は急斜面で宅地になり難い.

 

(芸西村・津野)

 

芸西村の農作地域を取り巻く台地は、傾斜の緩い斜面で見晴らしもよい.

 

(海が下)

 

そのため新しい住宅が増えている.

 

5.夕暮れ

 

(暮れる芸西)

 

高知県東部は、朝日は山に遮られて見えないが、西は海が開けているので夕陽はよく見える.

松林の中を線路が通っていて、西分駅は林の中である.

 

(シーハウス)

 

海に突き出たレストランのお客が、夕もやにシルエットになっている.

 

(土佐湾の夕陽)

 

(おわり)

 

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関連記事リンク:

13 羽尾・山奥の集落と集会

71 コミュニティバス1 香美市と芸西村

 

2019年9月20日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

高知学114 遍路の寺-讃岐その2 長尾寺、大窪寺、志度寺

いまお遍路のほとんどは自家用車(遠くの人ならレンタカー)によっています.

旅行社のツアーもありますが、季節は限られ、スケジュールに慌ただしいところもあります.

高齢になるとあまり歩きたくないのですが、遍路のお寺は交通不便なところが多いのです.

タクシーなどお金がかかることは避けたいので、できるだけ公共交通に頼りたいところです.

一方、歩き遍路で八十八か所一気に完歩、というのはさすがに少ないようです.

多くは区切ってお寺を訪ね、一旦帰ってまた次は前回のところから始めるやり方です.

一番ハードなのは、野宿で回ることでしょう.

遍路の原点ですが、地元で不評なのです.

汚い、辺りを散らかす、子どもが怖がる、お金を落とさない、などの理由です.

近くの駅では野宿防止のため、夜になると待合室に鍵をかけてしまいます.

 

2019年8月28日 最終版

 

1.87番 長尾寺

 

讃岐の遍路その2である.

高松からことでん長尾線、その終点から長尾寺は近い.

 

(長尾寺前)

 

88番への標識が見える、長尾寺の前の古い道には魚屋さんがある.

八百屋さんも見かけたが、今の時代、個人商店は高齢者にうれしい.

宿屋もある.

多くのお寺の門前には遍路宿があるので、遍路の泊まりには困らない.

自宅近くの遍路道にもある.

道から少し外れていることもあって満室は見たことがないが、一人二人と泊まって一隅で洗濯機を動かしている.

車だとビジネスホテルに泊まったりするため、この「お接待」は厳しいようで、廃業したところもある.

一方新規開業もあり、素泊り二千円、などと立札が出ている.

 

(長尾寺)

 

2.コミュニティバス

 

空模様が怪しくなってきた.

88番の大窪寺へ、さぬき市のコミュニティバスがある.

廃業した造り酒屋の前で掃除をしている婦人にバス停を尋ねた.

近くにあるが、待合室があるから大川バスの本社で待てばよいと教えてくれた.

 

(大川バス本社)

 

高速バスが発着する大きな本社だが、委託を受けて市のバスを運行している.

大抵のコミュニティバスは子どもの通学時間帯のダイヤで、部外者に利用し難い.

しかしここでははっきりと「大窪寺方面」と書かれている.

30分余り、着くのは昼時だがダイヤがうまくつくってあって、お詣りをして昼食をとる時間があり、到着から1時間半後に寺から戻れる.

 

(福祉センター)

 

マイクロバスの乗客は地元の人が二人、お遍路さんが二人、そして我々である.

コミュニティバスなので寄り道して運動公園と福祉施設を回る.

 

(雨の山道)

 

山に入ると本降りになった.

 

3.88番大窪寺

 

(大窪寺)

 

順に回ればここが最後のお寺、打ち留めなのである.

しかし歩き遍路の人の多くは、これで終わりという気持ちにはならず、またいつか回り始めるという.

 

(大窪寺の雨)

 

雨足が激しくなった.

本堂の廊下で雨宿り、じっと長い時間雨を眺めるのも思い出か.

休憩所で野宿で回る男性が濡れたものを乾かしている.

これから山を下って10番切幡寺に出て、あと五つで終わりだそうだ.

ガイドブックは1番から順だし、どこまで進んだかが判り易い.

しかし番号通り歩く決まりはないし、違える方が進み易い場合もある.

小降りになってきたので、手際よく荷物をまとめにかかっている.

食事から帰るともう姿はなかった.

 

4.86番志度寺

 

(志度寺)

 

大窪寺から長尾に戻り、バスはさらに志度寺へ向かう.

途中本社での15分休憩を挟んで1時間だが、どれだけ乗っても一乗車200円(休日は500円)である.

休憩で降りても有効である.

さぬき市のお接待だ.

 

(志度寺のお堂)

 

多くのお寺の境内は日本庭園であるが、志度寺は木や草が自然に生えたままになっている.

雨で藪蚊が多い.

近くにあるお寺を開設した上人は、命あるものだからと蚊さえ殺さなかったと立札の説明にあるが、そうはいかない.

 

(志度の街道)

 

志度寺を出て、ことでん志度駅へ向かう.

古い道にある個人商店の肉屋さんに道を尋ねる.

だれに訊いてもお遍路さんに懇切に道を教えてくれる.

スマホや地図を見るより「ふれあい」を感じるのだ.

江戸時代の眞念のガイドブックには地図や絵図はない.

通過する村の名だけが記されている.

近くの28番大日寺ではこんな具合だ.

「是より国分寺へ壱里半.ぼたひじ村、ぶようし村、といたしま村…」

大日寺を出て母代寺村に来ると父養寺村への道を尋ねる.父養寺に着くと戸板島の道を訊く.

これを繰り返す.

今はさぬき市のようにバスに1時間乗っても同じ自治体だが、昔は村の単位が小さかったためこれで十分なのである.

肉屋さんのショーケースの肉が美味しそうに見えたので、「持って帰れるものなら買うのだが」というと、

「そう気を使わないでも」と言われた.

 

(ことでん志度駅)

 

志度駅に電車がやってきた.

これで高松に戻れば、ことでん全三線完乗である.

 

 

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関連記事リンク:

5 お遍路さんはどんな人?どのように歩く?

75 コミュニティバス3 仁淀川町、中土佐町、安芸市

 

参考資料:

「四国遍路ひとり歩き同行二人」地図編、へんろみち保存協力会、2016.

眞念、稲田道彦訳注:「四国徧禮道指南」、講談社学術文庫、2015.

頼富本宏:「四国遍路とはなにか」、角川選書、2009.

 

(おわり)

 

2019年8月27日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

高知学113 遍路の寺-讃岐 その1 出釈迦寺、曼荼羅寺、善通寺

八十八のお寺を巡る四国遍路、総延長は1,100km余りで、東京と大阪を往復する距離と等しいのです.

平安時代から、修行や巡礼のかたちで寺社や行場を巡る行脚が行われていました.

やがてそれが四国出身の空海、弘法大師への信仰と結びつきます.

現在の八十八か所にまとまったのは、江戸時代初期とされます.

その頃、僧・真念はガイドブックを記すとともに、迷いそうな個所には標石を立て、また山中に宿泊所をつくりました.

これによって遍路が随分歩き易くなりました.

自然発生的な経緯から、八十八のお寺の分布にはばらつきがあります.

高知県では、24番の室戸岬から38番の足摺岬の先まで、15のお寺が400km近くに渡って広がっています.

一方、かたまっている地域もあり、1番から始まる徳島近く、また88番で終わる讃岐などがそうです.

讃岐のお寺のいくつかを巡ってきました.

 

2019年8月23日 最終版

 

(善通寺のお遍路さん)

 

1.お遍路さんのいま

 

2019年の報道によれば、お遍路さんの全体数は最盛期から4割程度減少しているという.

これは、大型観光バスでガイドさんが旗を持って先導するような団体が減っているためらしい.

今も何回かに分けて巡るツアーの募集はされているが、車はバンを使って行動に小回りが利くようだ.

一方、本来の姿である歩き遍路は増加し、その中で外国人が増えているとのことだ.

自宅下方にある自転車道は遍路道になっているが、これは頷ける.

何年か前には、歩き遍路の団体ツアーも見かけたが、各人の歩行ペースは違うし、これは無理がある.

双六の上りへ急ぐのではなく、道中を楽しみつつ何かを求めるということなのだろう.

 

(遍路道のうどん屋.1番からの歩き遍路にはお接待)

 

2.73番出釈迦寺

 

(善通寺駅前)

 

土讃線の善通寺駅を降りる.

丸い山の下が善通寺で、山の向こうに出釈迦(しゅつしゃか)寺と曼荼羅(まんだら)寺の二つのお寺がある.

6km近くあるので、奥の出釈迦寺へタクシーで向かった.

 

(出釈迦寺山門から)

 

寺は高台にあり、晴天の今日、瀬戸大橋までよく見える.

 

(出釈迦寺本堂)

 

お遍路さんが一番多いのは春先だそうだ.

いまは8月、じりじりと日が照りつける.

誰もお参りがないようでも、いつのまにか一人、二人と境内に現れる.

そこが遍路の寺である.

 

(捨身ヶ嶽)

 

寺の背後の捨身(しゃしん)ヶ嶽は、幼い空海が山から身を投げて修行したという伝説の山である.

お堂が見え、熱心なお遍路さんはそこまで山道を登るということだが、とてもだ.

 

3.72番曼荼羅寺

 

曼荼羅寺は600mしか離れていない.

野道に入るとすぐ寺の茂みが見えてくる.

 

(曼荼羅寺本堂から)

 

遍路の寺には本堂、大師堂、納経所がセットになっている.

石碑や石像も多いが、ここは石のトーテムポールだ.

 

(山門から)

 

善通寺には下り坂になるので、歩いてもいいかと思っていたが、この暑さ.

タクシーを呼んで山門で待つ.

秋ならいい散策になるだろうが.

緑の稲田と、この地特有の富士山型の山が目の前である.

 

4.75番善通寺

 

(善通寺)

 

タクシーは善通寺の西側に着いた.

広い駐車場があって、うどん屋が立ち並び、大変賑やかである.

境内も広い.

善通寺は空海が生まれた地とされ、真言善通寺派の総本山である.

また金毘羅さんが近いので、セットで来る人も多いのだろう.

 

(善通寺本堂)

 

お遍路さんというと白衣の姿を思い浮かべるが、バイク姿もいるし様々である.

ハーフパンツの若者が手を合わせている.

 

(善通寺駅へ)

 

境内を駅に向かって東に出る.

駅まで徒歩15分とあるが、彼方の土讃線陸橋が霞んで見え、もっとありそうだ.

道の背後、真っ直ぐに午後の太陽があり、建物や並木の入れる影がない.

両側の商店のシャッターは閉ざされて人影もなく、余計に疲れる.

何でもないところでの苦闘が後々印象に残る、などと痩せ我慢で歩く.

大きな精麦工場があり、全部うどんになるのかどうかわからないが、さすが讃岐である.

 

(自衛隊トラックと精麦工場)

 

善通寺には、日清戦争後の1898(明治31)年に、全国六の内一つの陸軍師団が設置された.

初代師団長は乃木将軍である.

善通寺の街は「軍都」と称されて賑わった.

いま面積は縮小されているが、それでも四国最大の自衛隊駐屯地になっている.

「免許取り立て」の大型トラックが何台も練習で走り回っている.

南海トラフ地震への対応も重点施策らしい.

 

(善通寺駅)

 

善通寺駅にやっと着いた.

JR四国の駅は一時、趣味の悪い色や装飾で劣悪な景観であったが、今は落ち着いている.

キオスクはセブン-イレブンだが、控えめな看板である.

鉄道ファンとして、ここしばらく高松琴平電鉄に乗っていなかったので、琴平まで戻り、ことでんで高松に向かった.

 

(JR高松駅)

 

明日はまた三つのお寺を回る予定で、予報では雨だが、JR駅背後に月が出ている.

 

関連記事リンク:

81 歩き遍路の道1 大日寺から

44 自衛隊高知駐屯地の公開

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(おわり)

 

2019年8月22日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

ブログ」への1件のフィードバック

  1. はじめまして。

    福岡への移住を検討していて河田さんのブログにたどり着きました。

    色々あって一年近く北海道から福岡まで毎月通っています。

    最初の頃は物見遊山で楽しかった福岡の往復も、半年ほど経つ頃には南北の人間気質の違いに直面し以降、来福を重ねる度に知れば知るほど土地の人間との付き合い方に悩んでいます。

    そうしたところ九州に近い四国に焦点を当てた河田さんのブログに出会い、南国に暮らす人々を理解する糸口を与えて頂いたような気持ちになりました。

    「いごっそう」「はちきん」をテーマにした高知学39の項では「移住者は全方位外交に徹し、助けてあげたいと思ってくれる人を増やし「前向きに」検討し、「丁寧な」対応を行い、「粛々と」進めることが望ましい」という一文にひざを打ち、福岡で接するお山の大将的な気質の方々との付き合い方を学んだよう
    な気がします。

    こちらはなにぶん冬が深く、辛抱と我慢を強いられる土地柄のせいか人間がおとなしく何事にも声を上げないところがあるのですが、南の国の事は福岡の事しか分からないことをお断りさせて頂いて申し上げると、南の方は頭と口が近いというか、物事を頭に留め置く時間が短くすぐにキレて投げ出してしまうところがあるように感じられたのですが、これも「所信表明」なのかと思えば納得ができるような気がします。

    まだブログのエントリーを読み始めたばかりなのですが、南国の人の気質を理解する光明を与えて頂いたことに一言お礼を申し上げたくコメントを差し上げました。

    北海道は朝夕の気温差が大きくなり、木々が色づいてきました。
    河田さんの暮らすところの秋は何色かと、まだ知らぬ四国の土地を地図で眺めています。

    末筆ながら時節柄ご自愛を。
    これから少しずつブログのエントリーを拝見します。

    失礼にならない程度にまたコメントできたらと思います。
    その節はまたよろしくお願い致します。

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