高知学117 紀伊半島の山村を訪ねて高知と比べる(その2、十津川)

高知県には六つの村、奈良県には七つの村があります.

四国にせよ、近畿にせよ、他の県では村がないか、あっても一つくらいです.

高知、奈良はイメージと違って山国であり、どうしても自治体が小さな単位になるのでしょう.

紀伊半島に村を訪ねます.

その1では、奈良県、吉野から国道169号線を南下して三重県まで来ました.

その2では、三重県、飛び地の和歌山県から再び奈良県に入って168号線を北上します.

 

2019年11月5日 最終版

 

 

1.三重県熊野市

 

(熊野市 桃崎)

 

三重県に入って桃崎まで来た.

60年以上前、友人と川沿いを歩くためここに来て泊まって、山奥の寂しい夕暮れだなあと思った.

海岸の熊野市まで20kmもないのだが、いま過ぎてきた川上村や上北山村と比べて廃屋が多く、一層寂しい.

「第三相互銀行」の支店跡がある.

こんな山里に?と思われるかもしれない.

しかし昔この辺りは、山持ち、林業、製材業者などで盛大に資金が動いていた.

支店長、行員が忙しく立ち働いていた姿を思い浮かべるのも難しいのだが.

紀伊半島の現状は、とりもなおさず林業の衰退を反映している.

 

2.北山村

 

(七色)

 

飛び地の和歌山県北山村に入る.

昔来たとき同宿の登山家に誘われ、筏に便乗して川を下った.

急流では筏に結ばれた綱を握って越えるが、腰まで洗われる.

流れが緩くなると寝そべって空を仰ぐ.

今はダムがあるが、下流は昔の姿である.

 

(北山川)

 

河畔の温泉宿に泊まる.

ここは昔、銅鉱山の選鉱場があったところで、採掘の坑道は山の向こうであり、トンネルを通って蓄電池機関車が鉱石を運んでいた.

その「人車」が復活されて乗ることができる.

坑道のところにも温泉があり、往復乗車券と入浴手形が一緒になっている.

片道10分ほどだが、車にばねというものがないので、突き上げる衝撃で十分に堪能できる.

昔の坑道は椎茸の栽培に利用されている.

 

(鉱山列車)

 

この辺り、断崖と深い淵が続く瀞八丁である.

「瀞ホテル」の旅館があり、何回も泊った.

崖に張り出す三階建ての贅を尽くした木造建築で、これも当時の林業の賑わいを物語っている.

 

(瀞ホテル)

 

かつては道がなく、川を船で行くしかなかった.

いま旅館の営業はしていないが、昼にカフェをやっている.

 

3.十津川村

 

169号線から168号線に入り、十津川に沿って北上する帰り道になる.

 

(十津川)

 

十津川は川幅が広く、砂利の河原が特徴である.

水深がないので船はスクリューが使えず、古い飛行機のエンジンでプロペラを回して推進するプロペラ船であった.

極めてやかましいが早いわけではない.

 

(2011年の十津川村崩壊地、実害がないので放置?)

 

なぜこのような石の河原になっているのか.

川はもともとV字谷であったという.

そこを深層崩壊した岩石が埋め、そして流され、小石に砕かれ磨かれ、今の姿になっている.

深層崩壊は、よくある地表面の保水力が無くなり、2mまでの浅い深さで滑る表面崩壊とは違う.

地層の深いところにあるクラック、歪の大きい地帯まで水が浸入して大規模に崩壊する現象である.

十津川の歴史に残る大災害は1889(明治22)年である.

時間雨量1,300mmの豪雨によって1,000個所で崩壊が発生し、土砂が川を埋めてダムとなり、さらに決壊することで被害を拡大した.

このとき最大で30m川底が高くなった.

住居、田畑、山林は完全に消滅し、住民は生きるすべがない.

移住が決意され、たった3か月後に2,700人が北海道の未開拓地に移った.

今の旭川近くにある新十津川である.

3か月後といえば11月で北国は冬、去るも地獄、残るも地獄であったことは想像に難くない.

 

(川上村の崩壊地)

 

類似の気象配置が120年後の2011(平成23)年に発生した.

恐れられた深層崩壊と河道閉塞を生じたが、1889年レベルに達しなかったことは幸いである.

北山川筋でも起きている.

8年を経過し新道が完成している.

深層崩壊地は地形的、地質的に推定が可能とされ、国交省より危険度マップが公表されている.

高知では吉野川流域の一部が入っている.

地域には予測のため各種のセンサが設置されているとのことだ.

 

4.十津川を遡る

 

 

 

(熊野本宮大社前)

 

熊野大社は平安の昔、山奥にある浄土への入口と理解され、遠く都から上皇、女院が参詣した.

その後も「熊野古道」から訪れる人たちが「蟻の熊野詣」というように絶えなかった.

本宮は1889年の災害で流出し、高台に移っている.

大社前の道路は、山の中だが電線が地中化され「観光地」らしい.

これまで通ってきた村々は、廃屋もあるが昔の「寒村」の惨めな面影はなく、道の駅や温泉などブラッシュアップされている.

日本の「田舎」は姿を変えたのだ.

 

(谷瀬の吊橋)

 

谷瀬(たにぜ)にある吊橋は1954年につくられ、長さ300m、高さ54mで、幅80cmの板を渡る.

どこまで行ける?

しかしこの橋は、明治の災害でこれより下の住居が流され、残った高台の家々を結ぶために設けられている.

 

(下市から)

 

山峡を抜け下市(しもいち)に出た.

出発の八木は近い.

大阪との境になる金剛山と葛城山が見える.

神武天皇は宮崎を出て、八咫烏の導きによって海と山を通りこの地に至った.

古事記、日本書紀によると紀伊山地を縦断したとのことだ.

 

(おわり)

 

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2019年10月31日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一