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高知学94 桧と棚田の山の町、本山

本山は高知市の北、約30kmのところにある山の町である.

土讃線大杉駅、高速道路の大豊インターに近い.

標高1,470mの白髪山の麓にある.

白髪山系一帯にはヒノキの森林が広がっていて、魚梁瀬のスギと共に土佐藩の財政を支えていた.

後年、森林鉄道が設置されて搬出を行った.

今、天然林は限られているが、樹齢250から300年のヒノキがあるという.

本山はその高価なヒノキの林業の基地として栄えた.

 

2018年6月18日 最終版

 

 

1.本山の町

 

(大杉駅)

 

大杉駅は森林をイメージしたつくりで、工業高校生のデザインである.

ここからバスで町に向かう.

 

(坂の町)

 

本山は坂の町だ.

町全体が山の斜面にある.

 

(旅館)

 

国道のバイパスができているが、旧市街には旅館や飲み屋がある.

昔ながらの小さなパチンコ屋があり、建物も看板も古びているが、店の中の蛍光灯がついているのでやっているらしい.

 

2.文学館

 

(大原富枝文学館)

 

「女流作家」は今では死語に近い.

もちろん現在も女性の作家はいるが、ことさら男性、女性と区別することはない.

かつての女流作家は、「女性が、女性の視点で、女性を描く」ことがその真骨頂であった.

書く側も読む側も、敗戦の結果生まれた「男女同権、女性の自立」を踏まえていたからだろう.

大原富枝はその一人である.

1912(大正元)年に本山町で生まれ、高知女子師範に進学したが、結核に侵され故郷に帰り、10年間療養生活を送った.

 

(本山の町)

 

29歳のとき、一大決心をして上京し、文筆の道を志す.

16年後、文学賞を得て作家生活が軌道に乗る.

代表作「婉(えん)という女」は、土佐の大土木工事を行った野中兼山が失脚し、一族の女性が40年間土佐の外れ、宿毛の山間に幽閉された物語である.

大原が10年間出歩くこともままならず、山を見上げるだけの暮らしを送ったことが投影されているであろう.

記念の文学館は元の裁判所を利用してつくられている.

文学館に接してホールがあり、冬の夜にコンサートに来た.

ひどく寒い日で、道には雪がうっすらとし、出演者は度々鼻をかんでいた.

しかし雪の山の中でのコンサートには趣があった.

 

3.教会

 

(教会)

 

坂の上に小さな教会がある.

パイプオルガンのあるお宅もあるらしい.

歴代の牧師の名が刻まれた石碑がある.

それによれば、初代は1872 (明治5)年となっている.

切支丹禁制が解かれたのは明治6年だから、それよりも早く信仰が始まっていたことになる.

高知市から見ると、本山は辺鄙な山の中である.

しかし、高知城下から瀬戸内に出る、参勤交代に使われた街道の中ほどにある.

今、高速道路が大体それに沿っていて、太平洋から瀬戸内海まで30分であり、本山に行く大豊ICはほぼ中間になる.

地図を南北逆にして見ると、荒波の岬と山脈で隔絶され、武士が威張る高知城下がむしろ辺境である.

本山の方が「文明開化」が進む瀬戸内に近いのだ.

 

4.棚田

 

四国を縦断して流れる吉野川のこの辺りは棚田地帯である.

北岸は急な山腹だが、南岸の谷あいは破砕帯が滑った緩い傾斜で、水田に適している.

吉延、伊勢川、高須とあるが、行政的に後2者は土佐町である.

 

(棚田の夏)

 

棚田は一日の気温変化が大きいので、美味い米ができる.

吉延では、室戸海洋深層水のにがり成分を加えて育成した米を「天空の郷」として売っている.

認定された条件での稲作だけがブランドを許される.

 

(棚田の道)

 

(棚田の水)

 

清冽な水が棚田の上から下に流れる.

 

(棚田の中)

 

オタマジャクシがわんさといる.

ヘビも水田に入ってオタマジャクシを追い回している.

 

(神社)

 

棚田の中の神社に「大正15年帰朝記念、松岡梅吉」と刻まれた狛犬がある.

「北米加奈陀に二十有余年」とあり、20年なら1906(明治40)年の渡航である.

当時カリフォルニアでは日本人移民が激増し、「日本人来るな!隔離せよ!」の排日運動が盛んであった.

梅吉の仕事はわからないが、本山出身ならロッキーでの林業だったのかもしれない.

 

(学校の跡)

 

見上げるとブランコの支柱が見える.

上がってみると、果せるかな学校の跡であった.

梅吉は子どもたちに外国の話をしただろうか.

 

(ツリーハウス?)

 

横に入った高角(たかつの)の集落には、仰天するオブジェ、色とりどりの水車、ツリーハウスがある.

公開されてはいないが、「アーティスト」がいるらしい.

 

5.棚田の秋

 

(棚田の秋)

 

棚田には夏の緑、刈入れ後のわらぼっちの列など、四季折々の姿がある.

しかし黄金色の稔りの時期が一番華やかだろう.

秋、孫二人を連れて歩く男性に出会った.

棚田は圃場整理で今の大きさになっているという.

昔はもっと小さい区画だったらしい.

 

(キャンペーンガール.棚田をよろしくね!)

 

棚田を回るフットパスが設定されている.

歩き疲れれば木陰で昼寝、最高だ.

 

 

(おわり)

 

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森林鉄道のパイオニア

高知の山道、出会う子ども

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高知学93 高知のぶらぶら町歩き2 商店街編

どこか知らない土地に行ったとき、面白くて後からの印象に残るのは、案外土地の人の買物の場のように思う.

ミャンマーの裏通りでは香辛料をスコップで掬っていたし、フランスの市場ではウサギが皮を剥かれて吊るされていた.

それに比べれば「名所」の見物は、観光ガイドブックで見た写真の確認作業のようでもある.

第1編では高知の中心街を回ったが、次はディープに商店街を回ってみよう.

 

2018年6月7日 最終版

 

 

1.高知の商店街

 

高知の商店街は、中央の帯屋町は別格として市域にいくつかある.

ほとんどが夏のよさこい踊りの演舞場となっている.

菜園場、魚の棚、はりまや、愛宕、大橋通、天神橋通、桝形、などがある.

近くの商店街に行けば、生活すべてに必要な買物ができたのだ.

高知市民の買物の場として知られているのは日曜市だが、毎日ではない.

また仮設だから、どうしても野菜、果物など並ぶ品物が限られる.

 

(日曜市)

 

木曜市、火曜市もあるが規模は小さい.

「商店街」はいつでもよい.

いくつか回ってみよう.

 

2.菜園場

 

菜園場(さえんば)の名は、昔、藩主の野菜をつくった場所だったことから来ている.

はりまや橋から東へ、電車で一停留所だが歩いて行ける.

 

(菜園場入口)

 

(菜園場商店街)

 

入口にはパン屋がある.

パンには薄緑クリームのメロン、薄桃のいちごがある.

アンパンは普通の丸形でなくジャムパン形だが、しつこくなく和菓子的だ.

看板には「かすていら」とあるが、今は作っていないそうだ.

高知のカステラ屋は、電車通り南側の大変判り難い場所にある.

 

(青物)

 

野菜、果物は商店街の定番である.

おばさん方が店の前で待機?している.

荒物も売っている.

 

(漬物と洋品店)

 

洋品店も商店街に必ずある.

こういうものは「ユニクロ」「しまむら」にはない.

商品の回転率は高くなさそうだが、はやりすたりがないからいいのだろう.

「昔懐かしい」、「時間が止まったような」という表現になるのかもしれない.

しかし店を出す人も、買い物に来る人も、そういう理由なのではない.

「ここなら買える」、あるいはもっと積極的に「ここでなければ買えない」のである.

シャッターを閉めた店もある.

漬物屋のおばさんが言っていた.

道の向こうは揚げものの店であったが、設備を新しくするのにお金がかかるのでやめた.

それはそれで止むを得ない.

 

3.魚の棚

 

魚の棚は、菜園場からはりまや橋に戻る道の横丁である.

「はりまや橋」が渡る水路の傍から魚を上げていたので、この名があるそうだ.

商店街というには狭くて短いが、一通り揃っている.

 

(魚の棚)

 

(コロッケ)

 

カフェに居酒屋まである.

クチュールも若者向けだ.

 

4.大橋通

 

大橋通は高知城に近い一角である.

今「ひろめ市場」があって観光客で賑わうが、もともとは市民日常の買物の場であった.

すり身の揚げ物を高知では「てんぷら」というが、店先で揚げて売っている.

 

(てんぷら)

 

京都の錦小路は市民買物の場であったが、今は外国人観光客が串をくわえながら歩く通りになっている.

先日行ったら、一番人気はイイダコと卵の串刺しであった.

高知でも串には事欠かない.

 

(大橋通の魚)

 

魚屋は3軒ある.

新鮮で旨そうで安いアラが並んでいる.

お土産に持って帰るわけにはゆかないから、地元民の特権だ.

店の中の1軒の本店は電車で6停留所西の、上町(かみまち)にある.

 

(上町の魚屋)

 

メールで今日の入荷を知らせてくれる.

本日のお勧めは、活〆天然平スズキであった.

(喫茶店)

 

大橋通の突き当りに、2軒の「正統喫茶店」が並んでいる.

昼下がりに一休みした.

入ってきた若者は、迷わず「ヤキメシ!」と注文した.

隅では老婦人が一人、ランチセットをゆっくりゆっくり食べている.

奥では数人の男女が、テーブルを囲んで打ち合わせをしている.

カウンターでは高齢の男性がコーヒーを味わっている.

 

(お赤飯セット)

 

高知でお祝いの配り物の定番といえば、大橋通の角にある中納言の赤飯、紅白の饅頭または餅である.

展示の見本を見ると、赤飯の折詰めや餅の最大は1升だ.

店内にイートインスペースがあって、お赤飯や栗おこわが食べられる.

赤飯には、これでもかというくらい小豆が入っていた.

 

(餅ばあす)

 

高知では新築の家が出来上がったとき、紅白の餅投げをすることが普通である.

大学の新棟落成でも行われる.

袋麺、お菓子、玩具も投げられる.

缶ビールを投げた例もあるらしく、ナイスキャッチが必要だ.

高知で「餅ばあす」と言っている.

「ばあす」とは「奪う」の意味で、「餅奪い」なのである.

激烈な争奪戦に小さな子どもが巻き込まれるのは危ない.

そこで大人と子ども、2部制でやる場合もあるらしい.

まあ1升の餅を投げることはないだろうが.

 

(おわり)

2018年6月2日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

高知学92 高知のぶらぶら町歩き1 中心街編

高知には、毎週のように内外観光客を乗せたクルーズ船がやってくる.

高級な船もあれば、格安大型船もある.

高知の人は自嘲的に、見るものは高知城と桂浜くらいや、などと言っている.

しかし、不評なら繰り返し来ることもあるまい.

改めて高知の町のぶらぶら歩きをしてみよう.

最初は中心街である.

 

2018年5月25日 最終版

 

 

(クイーンエリザベスⅡ)

 

 

1.高知城

 

(高知城)

 

京都、金沢にはお城や天守閣がない.

高知にはある.

広さ、高さが手頃なので、高齢の観光客でも音をあげることはない.

多くの有名天守閣は、安全のため欄干に網を張ったり手摺を高くしている.

高知城での落下は自己責任で、手が加えられていない.

以前は夜間照明がなく、ビル上の某クラブのママが、店からサーチライトで照らしていたそうだ.

マイキャッスルである.

 

(木陰にて)

 

入口横の木陰は、市民の将棋の場となっている.

ジャパニーズチェスである.

今しも、新しく来た一人が持参の台を広げるところだ.

観光客が飛び入りしても、嫌な顔をされることはないだろう.

どちらが「おぬし、やるなぁ」となるだろうか.

 

2.はりまや橋

 

(電車の中から)

 

はりまや橋は、自他共に許す「がっかり名所」である.

もともとは、有名でもなんでもない小さな橋であった.

路面電車の南北と東西の路線がここで交叉するようになり、停留所にその名がつけられ、高知の中心イメージに成長した.

映画のロケで初代の赤く塗った橋がつくられた.

しかし「がっかり」もここまでくれば「マスト」のアイテムとなり、みんなスマホを構える.

 

(はりまや橋交差点)

 

交差点の北西は土産物店、向いはからくり時計のあるバス切符売場である.

南東のビルは以前西友デパートだったが、今は大阪資本のパチンコ店である.

向いは地銀の本店で、3時で閉まる.

いささか「中央感」に欠けるが、「がっかり」なので当然と言えば当然だが.

 

3.水辺

 

(鏡川)

 

高知市は、鏡川、国分川などが流した土砂が積もってできた沖積地の上にある.

江戸、大阪と同じく、分流や人工の掘割が複雑に入り組む「水の都」である.

市域を鏡川が貫通する.

春、河原にはアサリを掘る人たちがいる.

今年、鏡川の鮎の遡上は多いようで、解禁で竿を出す人もいる.

漁券は商店街で売っている.

町中で潮干狩りや鮎釣り、粋ではないか.

 

(浦戸湾、向こうが高知市街)

 

鏡川は浦戸湾に流れ込む.

7km先の湾口が桂浜である.

「月の名所は桂浜」というが、昔は船か峠越えでないと行けなかった.

浦戸湾は淡水と海水が混じる汽水域で、怪魚アカメが生息している.

光線の角度によって目が真っ赤になる.

体長131cm、重さ39kgが釣れたそうだが、キャッチアンドレリースが基本になっている.

 

(アカメ、中村のトンボ公園内水族館で)

 

何にせよ高知は釣り師天国である.

 

3.帯屋町

 

(帯屋町)

 

高知一番の商店街は、はりまや橋から高知城近くまで1km続く帯屋町である.

ファッション、ドラッグ、宝飾品、時計、パチンコ、その他何でもある.

オリエンタル調豊かな仏具店もある.

 

(仏具店)

 

(よさこい衣装)

 

意表を突く、よさこい祭りフアッションの店もある.

食べ物屋も何でもあるが、外国人観光客はよくマックに入っている.

ここまで来てマックはないと思うが、日本人が異国で「吉野家」に入るようなもので、安心感があるのだろう.

 

(大橋通)

 

連休など人出の多いときは、街路も利用される.

「藁焼きたたき」は、もちろん高知を代表する料理であり、焼き立てがその場で食べられる.

 

(オープンテラスで)

 

高知城近くの「ひろめ市場」はあまりにも有名な存在になって、大変な人混みである.

付近にその延長となる施設が拡大されている.

屋外は開放的で楽しいし、通りがかりの客も、覗けば何が食べられるかよくわかる.

カクテルやウィスキーのスタンドバーもあって、陽は高いが賑わっている.

大抵の人は、大小あるがビールを飲んでいる.

銀座の歩行者天国とは大分違う.

高知観光の醍醐味は、昼間から堂々と酒を呑めることである.

 

(はりまや橋近く)

 

ひろめ市場は肩肘張らないが、失礼ながら東南アジア場末的イメージである.

一方はりまや橋付近には、昔からの「正統派食堂」が多い.

日本が誇る技術の食品サンプルが用いられている.

あるアメリカ人女性は「これはいいワ!よくわかる!」と感嘆していた.

ただ、歴史的風土の高知城近くが猥雑で、新開地のはりまや橋が正統的、逆のようでもあるが.

 

 

(おわり)

 

関連記事リンク:

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高知の観光船、浦戸と足摺

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2018年5月22日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

高知学91 元気な高知の路面電車・とさでん交通の旅

路面電車は京都が最初で、東京、大阪を始め多くの都市で走っていた.

ところが自動車の邪魔だと、ほとんどが撤去されてしまった.

しかし今、ヨーロッパ、アメリカとも、都市内を自動車によらず快適にエコに移動できる手段として、路面電車が続々と新設されている.

日本だけ遅れていたが、今度宇都宮で建設されることが決まった.

高知は114年間動き続けた結果、気が付けば最先端の街になっている.

路面電車・とさでん交通に乗ろう.

 

 

2018年5月9日 最終版

 

1.桟橋

 

(高知駅から)

 

電車は1904(明治37)年、新しくつくられた浦戸湾の桟橋と、高知の町を結ぶことから始まった.

高知の各地は険しい山で隔てられているので、行き来はもっぱら船であった.

しかし浦戸湾は最近まで海苔の養殖が行われていたくらいで、湿地や浅瀬が多く大きい船は入れない.

そこで浚渫や埋立を進めて、市街から2kmのところに新しく港をつくった.

周辺は何もない水田で、人にも荷物にも不便なので電車を敷設した.

 

(行く手が昔の港)

 

大阪も似た事情で、1903(明治36)年、天保山に「築港」をつくり、市電を建設している.

しかしいくら必要性があっても、お金が必要である.

高知が大阪のたった1年後に、もう電車を通したのはそれだけの財力があったからだ.

木材、和紙、海産物、薪炭など、高知には大変豊かな産業があった.

 

(終点、桟橋通五丁目)

 

今かつての桟橋は別の場所に移動している.

防潮堤が高いので、電車から海は見えない.

 

2.電車のインパクト

 

大阪に電車が走り出したとき、15歳の松下幸之助は自転車屋に奉公していた.

電車を見て、もう自転車は売れないのではないかと考える.

転職し、配線工として電灯会社に入る.

では高知には「幸之助」が居なかったのだろうか.

 

(「電車の日」の桟橋車庫オープン)

 

 

土佐の少年・中屋熊太郎は感動の目で電車を見つめていた.

これからは機械の時代だ、そう考えて、町外れの下知(しもじ)に出来つつあった鉄工所の職工となる.

やがて山に材木運搬のレールが敷かれるようになるが、牽引するのは犬か牛である.

電車や蒸気機関車は無理だが、漁船に使われ始めた焼玉エンジンはどうか、中屋はそう考える.

借金して小さな機関車を製作し、本山営林署での試運転にこぎつける.

トロッコを7両牽くことができれば買う、という約束だったが、4両しか牽けなかった.

スリップして脱線し中屋は怪我をする.

失意の内に、今の土佐町地蔵寺の山奥に引き込み、軌道の修理工として惨めな生活を送ったという.

松下幸之助が独立して、松下電器・パナソニックを創業する1917(大正6)年の3年前のことであった.

 

(はりまや橋交差点)

 

3.高度の運転技術

 

とさでんは、高知駅から先ほどの桟橋に向かう路線に加え、はりまや橋で直交して東の後免と西の伊野に向かう路線がある.

後免方面、伊野方面とも11kmほどである.

東急で言えば渋谷から田園調布より遠く、小田急の新宿から成城学園くらいだから、結構の距離の郊外電車である.

高知周辺で土讃線が建設されるのはとさでんの20年後で、高松へ通じたのは30年後の1935(昭和10)年である.

 

(後免町終点)

 

途中折り返しの電車があるので、終点まで行く車両には「ごめん」、「いの」の表示がある.

両線とも道路の端を通ることが多く、この道を通るドライバーには、瞬時の適切な判断が必要である.

 

(道路上の停留所、車は右へ)

 

レールは道路に接している.

昔、荷車や牛馬しか通らない狭い道の横に線路をつくったためである.

道路側にはホームをつくる余地がなく、路面に緑を塗ったところが停留所である.

道路上で電車を待つのは危ないから、レールの上で待つのが間違いない.

電車は必ず徐行して乗客の有無を確認している.

 

(右側通行?電車の中から)

 

高知市内の西からは単線になり、ところどころで電車同士の行き違いがある.

狭い道の端に線路がある.

向うから電車が来ると、左には余地がないから、車は右側を走るよう判断する.

 

(道路の真ん中で電車が行き違い)

 

朝倉での行き違いは、2両が道路を塞ぐので待つしかない.

バイクでも隙間を通れない.

折り返しの電車があって、道路の真ん中で長い間停車する.

駐禁の標識があるが、「自動車」と書かれているので、電車は対象外である.

とさでん沿線は車の「自動運転」の格好のテストコースである.

 

(終点、伊野)

 

運転士は皆親切だ.

老婦人が買物車を下ろすのに手間取っていると、降りて手助けしてくれる.

 

(低床連接車)

 

その点、今世界の路面電車のスタンダードになっている低床車は乗り降りし易い.

ただ2両しかないので、まだまだ運転士や乗客の介助が必要だ.

 

4.おきゃく電車

 

最近あちこちに車中で食事をとる観光列車がある.

とさでんはどうか.

「おきゃく電車」がある.

高知で「お客」とは宴会のことである

 

(おきゃく電車)

 

ビール飲み放題、料理、カラオケ付き、持込み可で、100分4,000円(女性は3,500円)はリーズナブルだ.

最小人数は18である.

ただ普通の電車の通路に長いテーブルを置いた構成なので、座席を立って、高知でつきものの献杯、返杯がやり難いのが難点である.

ビール飲み放題というと心配もある.

後免往復のコースだと40分の我慢?である.

市内をあちこち行き来するコースなら心配は少ない.

 

(おわり)

 

参考文献:堀田蘇彌太、ガソリン機関車に就て、高知林友、59(1924)

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森林鉄道機関車のパイオニア・中屋

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2018年5月6日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

高知学90 車で辿る歩き遍路道 4.塚地坂、青龍寺から浦ノ内湾と仏坂を須崎へ

歩き遍路の道を辿っている.

安直に軽自動車で探訪しているのだが、歩きたいとは思う.

短いが塚地坂を歩くことにした.

 

2018年4月26日 最終版

 

1.土佐市

 

山の中腹にある35番清滝寺から、もと来た道を戻って土佐市街に入る.

和紙の伝統を継ぐ製紙の町・高岡と、海岸の漁業の町・宇佐が合併してできた市である.

両町は山が隔てていて、その峠道が塚地坂である.

今は800mほどのトンネルがあり簡単に往来できるが、これが無ければ合併はあり得なかっただろう.

 

(高岡の旧道)

 

高岡には昔からの旧道、その外側につくった広い新道、さらにバイパスがある.

古い街道筋によくある構成で、旧道には商店が並び、空を電柱と電線が覆っている.

 

(波介川)

 

しかし外に出ると、和紙を育んだ波介川、仁淀川の清流である.

 

2.塚地坂

 

(塚地坂の登り口)

 

塚地坂は峠の標高190m、長さ2kmで「高齢者」の歩きに手頃だし、国の史跡に指定されている.

遍路道であるが、もともと行き来の多かった街道で、長年の手入れが感じられる.

トンネル入口横の登り口は広場になっていて、車を停めた.

この辺りで何人かのお遍路さんに出会ったが、二人はそれぞれ外国人の男女であった.

しかし、日本語の案内板、標識はあるが、外国語のものは全くない.

 

(峠道)

 

野鳥の声を聞きながら、落葉を踏んで登る.

海水を飲むというアオバトの声も聞こえる.

 

(峠から)

 

峠の頂上から、これから向かう横浪半島が望める.

休み易い竹のベンチがつくられている.

 

(石像)

 

峠の麓には、天保、寛永などと刻まれたお墓や野仏が多い.

病があって、峠で力尽きた遍路であろう.

俗名を記したものもある.

遍路は行倒れたとしても、国元には知らされない掟になっていた.

いくら待っても帰って来ないので、身内が「大工の留吉を知りませんか」と捜索の旅に出たこともあっただろう.

「そういえば」ということになって、悲嘆に暮れながら墓石を置いたのかもしれない.

 

(安政地震の碑)

 

安政地震(1854年)の被害、教訓を円筒一面に記した碑がある.

ここまで津波が届いた.

それより150年前の宝永地震も述べられている.

「物欲を捨てて、まず逃げよ」ということだ.

 

3.青龍寺

 

(浦ノ内湾口)

 

宇佐の海岸からは、これから行く青龍寺のある半島と、長い入江の入口にかかる橋が見える.

1時間、なかなか楽しい塚地坂であったが、途中出会ったのはお遍路さんではなく、エクササイズの男性だけであった.

坂道を避け、トンネルに突入する人が多いのだろう.

長大トンネルを歩くと、車の音が反響してうるさく、排気ガスや煤で息苦しくなるが.

ただし、タクシーでトンネルを戻ったが、あっという間であった.

 

(青龍寺と蟹ヶ池)

 

青龍寺が山蔭に見えてくる.

手前は蟹ヶ池で、研究者が底をボーリングして堆積物を調べた.

すると二千年前の弥生時代に、マグニチュード9クラスの巨大地震による大津波が発生した痕跡が認められたという.

有史以来の南海トラフ地震は、すべて8クラスと推定されているが、9となれば2011年の東北と同じである.

南海トラフ地震のメカニズムははっきりしている.

フィリピンプレートの潜り込みの反動で、陸地が間歇的に跳ね上がることによる.

データから、次の地震の発生は2038年の確率が高いとされている.

早く起きれば蓄積エネルギーが少ないから規模は小さいが、遅くなれば遅くなるほど規模は増大するのだろう.

 

4.三つのルート

 

36番青龍寺から次の37番岩本寺まで、60km近くある.

青龍寺出発から15kmのルートは次の三つがある.

1)寺から上がって横浪スカイラインを歩く

2)3km来た道を戻って、一日3回の巡航船に乗る

3)同じく戻って、浦ノ内湾沿いの道を歩く

2がもっとも楽なことは言うまでもない.

この区間を、歩かずに舟で行くことは昔から遍路で認められているらしい.

誰しも同じ道を戻ることには抵抗感があるので、1をとる人が多い.

しかしこれはそれ迄道のなかった半島に、1973年になってつくられた自動車道である.

車は何でもないが、絶えまなく坂を上がり降りするので、大変疲れる.

 

3.浦ノ内湾

 

入江に沿う道は、高低差がないので楽である.

 

(浦ノ内湾)

 

海沿いの家は、防潮堤があるので庭からとはいかないが、一歩出れば釣り場でありマイボートも係留できる.

 

(堤防で)

 

この辺りは、休憩所やトイレを備えた釣り筏が多いし、半島の断崖下では磯釣りもできる.

釣り師の天国である.

 

4.仏坂

 

半島を抜ければ、スカイラインと入江の道とが合流する.

一般には真直ぐに須崎に向かうのだが、その間に短いが狭いトンネルがある.

大型車の離合は困難で、歩道はない.

合図灯を手にし、車の途切れたところで走り抜けることが望ましい.

 

(仏坂登り口)

 

より安全な道はある.

北側の山中を通る仏坂の遍路道である.

峠の長さは2kmくらいで、標高150mだから塚地坂よりも低い.

ただ人も車もほとんど通らない、寂しい山道である.

山登りでは当たり前だが.

 

(峠から)

 

(轟)

 

地図で見ると、この山奥に今もあるかと感じる轟集落であるが、新しい鯉幟が立っている.

次世代が確保されたのであろう.

ただし遍路道はショートカットしていて、轟は通らない.

やがて須崎のヤマダ電機の屋上看板が見えてきた.

 

参考にした図書: 尾池和夫:「2038年南海トラフの巨大地震」、2015、マニュアルハウス.

 

関連記事リンク:

巡航船と伊勢海老の横浪半島

四国遍路はどんな人?、難所はどこ?

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(おわり)

2018年4月21日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

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