23   高知の椿山.最後の焼畑農業の地はいま?

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高知でもっとも奥深い山の集落、それは椿山(つばやま)である.

日本最後の焼畑農業地域である.

いの町から仁淀川を遡る.

その支流、さらにその支流をたどって2時間あまり、道はさらに細くなり、人の気配を感じない.

谷川の水音がはるか下に聞こえる.

そこから山を登ったところが椿山である.

 

2017年3月28日 修正版

 

 

(大野.行く手が椿山.左は廃校の小学校)

 

仁淀川は山の間を屈曲して流れ、支流、またその支流が複雑に入り組んでいる.

集落は山間に広く散らばっている.

家々は山の斜面にある.

山が林業、炭焼きなど、仕事の場であったからである.

川沿いにある町は、買物の場としての商業地域であった.

椿山には、池川の街並みを外れる.

狭い国道494号線を行き、途中から折れる.

行く手に目指す山が見えてくる.

流れは澄み切っている.

 

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(大野椿山川)

 

椿山に着く.

標高600m、急斜面に貼り着くように家々が立っている.

山の斜面につくられた集落は高知に多いが、これだけ急斜面に沢山の家が集まった地域はない.

急斜面に等高線に沿うような棚がつくられ、棚ごとに家が並んでいる.

同じ棚の中では平らな道が通じているが、違う棚に行くには急な石段を登らなくてはならない.

 

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(椿山)

 

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(棚に沿う家々を結ぶ道)

 

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(違う棚に通じる石段)

 

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(敷地の手入れ)

 

石垣の草を刈る男性に出会った.

町に住んでいるが、奥さん共々手入れに来ている.

昔は200人いたが、いま住民票があるのは一人だけ、という.

ただ車はほかに2台見たし、洗濯ものを干しているところもあった.

通ってくる人は何人かいるらしい.

見たところ、20軒はあるようだ.

崩れているのは1軒だけで、多くは手入れされている.

森のところどころにも石垣が見られるので、昔はもっと多かったのだろう.

 

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(小学校の跡)

 

平地がないから、小学校の校庭は鉄骨を組んだ脚の上につくられている.

校舎はなくなって、今は集会所がある.

以前はもっと金網が高かったのだろうが、ボールが網を越すと谷底まで飛んで行ってしまう.

小学校は1972年に廃校になっている.

麓の大野小学校は1973年である.

日本の高度成長が始まろうとする50年近く前、山ではもう子どもが消えていたのである.

椿山では年5回、太鼓祭りが行われる.

祭りといっても賑やかなものではなく、太鼓と鐘を鳴らして祈りつつ回る、昔からのしきたりである.

離れた人たちもこのときには帰ってくる.

今度来るように誘われた.

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祭りだけでなく、周辺の道、水源を維持するには、住民の共同作業が必要である.

途中でも、伐採した木材を満載したトラックを道一杯に止め、運転手が行く手に被さる木や竹を切り落としていた.

このような作業をせず、面白半分に訪ねたり、住んでみたりするところではない.

 

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(焼畑の山)

 

焼畑は適当に森を焼いて作物をつくるのではない.

肥料が要らないから、エコだから、というような理由でもない.

焼畑は周到な計画の下に行われる.

まず延焼を防ぐ空間をつくり、木々を焼いた後、最初に蕎麦、粟、稗をつくる.

次に豆、大根、芋を輪作する.

4年後に放置して20年ほど自然のままにする.

そこでまた火をつけて畑にする.

順次これを繰り返す.

和紙の原料である楮、三椏もつくられた.

人生50年の時代、一生の内で、同じところに同じ作物を植える機会は、2回あるかないかである.

200人の人を養うには相当の面積が必要である.

また、それだけの人がいないと、焼畑のようにサイクルの長い耕作は回って行かない.

45度近い急斜面であり、棚田をつくるなどの普通の耕作はとても不可能である.

ここでは焼畑しかない.

山を見上げれば、焼畑は気楽なものではないことがよくわかる.

急斜面を上り下りして、下手をすれば転落もあり得る、厳しい労働である.

1970年代まで行われた.

日本最後の焼畑ということは、日本で最も厳しい耕作地であったと言えよう.

いまその後は人工林になっている.

 

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(奥の山)

 

どうしてこのような厳しい地域に住むことになったのかと思う.

彼方の山は高知と愛媛の県境である.

今でこそ崖を削って高知側に車道がつくられているが、昔は婚姻など、松山、西条との交流が強かったという.

1,900m近い山に囲まれて、高知でもなく、愛媛でもなく、孤立した独立国のような存在であったかもしれない.

安徳帝が3年をこの地で過ごしたという伝説がある.

椿山は「畏れ多くも」という、他の干渉を許さない、誇りに満ちた土地である.

林道を40分上れば、椿山全体を見渡すことができるそうだ.

行ってみたいが、天候は悪化しつつあり、山に雲がかかってきた.

次の機会にしよう.

 

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(おわり)

2015年8月25日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一