56 龍馬のレポート 3:後藤象二郎と岩崎彌太郎、未完に終わる大目的

高知では、何かとネーミングにつくことが多い「龍馬」.

観光振興といえば、国内、海外向けを問わず、「龍馬」が出てくる.

いささか「龍馬」には飽きが来ている気もするが.

しかし、改めて龍馬の生涯を振り返ってみると、そこには沢山の教訓が残されている.

その1と2では、八つの教えを記した.

京都で一生を終えるまでの期間を辿る.

 

2017年4月7日 修正版

 

 

1.タフコーディネーター

 

(瀬戸内海)

 

1867年の長崎には、3人の土佐人が揃っていた.

坂本龍馬、後藤象二郎、岩崎弥太郎である.

彼らに共通するのは、タフコーディネーターであることである.

自分の意志を明確に持ち、それを貫く.

その点では「いごっそう」と言えるが、硬直的に主張するのではない.

1867年4月、龍馬がリースした船が、瀬戸内海で紀州藩船と衝突し、沈没した.

相手は、徳川御三家の政治力で処理しようとするが、龍馬は硬軟両方で対応する.

事実関係から「万国公法」に照らすとして、国際的な自船航路の正当性を主張する.

一方、紀州に否があるとする歌を流行らせ、紀州討伐の噂を流して世論に訴える.

最後に、土佐藩を代表する象二郎が表に出て、決着させる.

1867年9月、長崎で土佐人が英国水兵を殺害した疑いで、英国公使パークスと通訳のサトウが須崎にやってきた.

 

(須崎湾)

 

後藤象二郎が対応する.

パークスは、これまでアジア各地でやってきた流儀で、頭から罵声を浴びせる.

同席の幕府重役はおたおたする.

象二郎は冷然として、その態度では交渉にならないと言い放つ.

パークスは応対の率直さを逆に評価し、以後親しくすることを誓い合う.

 

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(高知城下)

 

岩崎彌太郎は、長崎の土佐藩出張所のよろず責任者であった.

象二郎はやたらと艦船購入に金を使うし、藩が世間知らずで外国人と交わした諸契約ももめている.

自転車経営で、借金返済のために内外で借金をする.

接待漬けにしてうやむやにする.

彌太郎は、いつでも、どこにでも、足まめに出歩く人物であったと伝えられる.

いつの時代でも、フェイスとフェイスのコミュニケーションが、交渉の基本である.

外国語はできなかったが、弱い立場でありながら、外国人と対等以上の態度で、海千山千の戦争商人と渡り合う.

自身の遊興が過ぎるとして、更迭の話も出るが、余人には代え難く、いつも沙汰止みとなる.

龍馬の教訓の第九は、リーダーはタフな折衝ができなければならない、ということである.

 

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(岩崎彌太郎生家)

 

2.箇条書き

 

1867年当時、幕府は長州との戦争にも敗れ、統率力に欠けてきたことは明らかであった.

それではどうするか、各大名はドイツ、英国の憲法、議会制度も調べる.

徳川は退陣し、藩主などによる会議を設け、結果を天皇を長とする朝廷が発令する仕組みが、大方の意向である.

英国は日本とどのように接するか、公使を始め、外交官が各地を回り、情報を収集していた.

その一人、日本語を駆使し、日本人以上に日本の機微に通じるとされた、アーネスト・サトウも、上のような趣旨を、1866年、横浜の英字新聞に寄稿している.

それが日本語に翻訳され、「英国策論」として印刷され、各地の書店で販売された.

1867年1月、サトウが宇和島藩主から、これを読んだと告げられているが、衝撃的な内容とは受け取られていない.

 

しかし、徳川退陣を自主的に行うのか、クーデターによるのか、その後の主導権争奪、各藩の内情などがからんで、流動的であった.

1867年6月、後藤象二郎は龍馬を伴って、京都に行く.

土佐藩を代表し、各方面と接触するためである.

その際、船上で作成されたのが「船中八策」である.

内容は議会制、朝廷の関与など、これまで検討されてきたことであるが、各人の胸の内にあるのではなく、明文化さている.

それもよくある美文調ではなく、簡潔な八個の箇条書きで、理解されやすい.

龍馬の第十の教訓は、方針は簡単明瞭な箇条書きで示されなくてはならない、ということである.

 

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(上野公園)

 

3.改革での危険

 

龍馬は1866年1月、薩長同盟成立の翌日、伏見の寺田屋にいるところを襲撃された.

重傷を負ったが、お龍のおかげで薩摩藩邸に引き取られた.

1867年10月、徳川の自主的退陣「大政奉還」の表明後、龍馬は福井に行くなど、後藤と共に事後策に追われていた.

ひと月後、11月15日に京都の下宿で暗殺される.

 

(京都の町)

 

土佐藩が駆け付けるが、間に合わない.

いずれも予想されたことである.

なぜ事前に薩摩、土佐の藩邸に居を構えなかったのか.

龍馬のこれまでの行動からして、彼の大目的は、閉鎖的な藩の解体、武士を頂点とする身分制の打破であったと想像する.

藩を否定する考えを持つのに、危険だからと庇護を受けるわけにはゆかない.

龍馬は大目的の達成に向けて、次の段階をどのように考えていたかはわからない.

しかしその後、土佐藩士であった自由民権の板垣退助、中村出身で帝国主義を否定した幸徳秋水、高知の家系で敗戦後の民主主義下の吉田茂、と繋がって行くのではないだろうか.

龍馬の最後の教訓は、所信を貫くには必ず危険が伴う、ということである.

 

 

リンク:龍馬のレポート 1

    龍馬のレポート 2

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参考にした主な文献

1)池田敬正:「坂本龍馬」、中公新書、1965

2)大橋昭夫:「後藤象二郎」、三一書房、1993

3)伊井直行:「岩崎彌太郎」、講談社現代新書、2010

4)アーネスト・サトウ:「一外交官の見た明治維新」上下、岩波文庫、1960

 

(おわり)

 

 

2016年11月4日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一