55 龍馬のレポート 2:勝海舟、後藤象二郎、権力との付き合い

現在では、すっかり高知の観光イメージキャラクターになっている坂本龍馬.

しかし改めて考えると、龍馬の残した数々の教えがある.

その1では、江戸への留学から、各地の放浪まで、四つの教訓を述べた.

その後の、先端技術への挑戦を始めに、続けて考えよう.

 

2016年10月30日 最終版

 

1.先端技術

 

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(高知港の護衛艦)

 

龍馬は、当時の最先端技術である、洋式船に携わりたいと考えていた.

すでに黒船を見ているし、開港された横浜には、外国船が頻繁に出入りし、貿易が活発である.

国防、交易だけでなく、輸送の革命をもたらすものである.

薩摩から江戸一帯を徒歩で旅した龍馬には、それがどれだけの効果もたらすか、身に染みてわかる.

1862年に脱藩して、海軍奉行並の勝海舟への接近を考えた.

しかし、幕府の要職にある人に、いきなり「たのもう!」という訳にはいかない.

伝手から伝手をたどる.

龍馬は、目を吊り上げて平伏し、「お願いします!」というタイプではない.

各地の生の情報を基に、あれこれと話す.

その内に、聞き手は「そんなことを考えているのか、それならこの人に会ってみては」などとなる.

一浪人だが、最終的には越前藩主、松平慶永の紹介を得て、勝海舟の部下となる.

龍馬の第五の教訓は、先端技術に果敢に挑戦するには、周到な事前準備が必要ということである.

 

2.リクルート

 

勝海舟は、1860年の咸臨丸でのアメリカ航海の体験で、軍艦乗組員の育成が重要であることを認識していた.

船は金を出せば、外国から購入できる.

しかしその乗組員は、時間と手間をかけて、国内で育てなくてはならない.

船の運航は肉体労働を伴う.

命令だけする武士ではどうにもならない.

龍馬は意を受けて、土佐で馴染みの、末端に位置する若者を多数リクルートする.

そうなると、脱藩の犯罪人では具合が悪い.

海舟の口利きで、土佐藩より罪が許され、正式に活動が許される.

海舟は1863年4月、神戸に海軍操練所を設立することになり、龍馬が塾頭に任ぜられる.

広く、幕臣、藩、家柄を問わない、有為の人材を募集する.

龍馬は希望に満ちた充実の日々を送る.

海舟を通じ、これまで繋がりがなかった薩摩とも親交が生まれた.

龍馬の第六の教訓は、人材はフィルターにかけて集めるのではなく、自身の責任で育てるということである.

 

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(神戸港の夜)

 

3.ビジネス

 

当時の政治は、薩摩、長州などの強力な藩を取り込むか、フランスの援助を基に旧体制を維持するか、揺れていた.

後者が勝ち、1864年10月、海舟は失脚し、1年半で海軍訓練所は閉鎖される.

では今居る所員と共にどうするか.

 

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(長崎、グラバー邸)

 

自ら道を切り開くしかない.

龍馬は薩摩から江戸を奔走する.

長崎は昔からの国際貿易港であり、船舶、武器を扱う外国商人が多く出入りしている.

乱世ではビジネスチャンスが多く、ここに本拠を置く.

亀山社中、そして後の海援隊である.

 

 

 

 

事業内容は次のようである.

1)訓練の成果を生かした、船舶の運転

2)自由な立場を生かした、各藩の船舶、武器、糧秣購入の斡旋、仲介

3)自己保有船、借用船による運送

特に、表面には出難い長州、基盤の人材に不足勝ちな薩摩には重宝がられる.

ただ運送業は、嵐による沈没、他藩船との衝突など、不運続きであった.

龍馬の第七の教訓は、今居る組織が解体されても、培った技術を展開してビジネスにするということである.

 

4.権力と財力

 

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(桜島)

 

龍馬は次第に政治の世界に入る.

尊王攘夷!などと叫ぶ、観念的なイデオロギーではない.

階級によらず努力する普通の人たちが、制限なく活動し、外国に負けない技術を持つ日本をつくる.

これまで目指してきたことである.

しかし、体制を変えないことにはどうにもならない.

そのため、実力を持つ薩摩、長州と行動を共にしてきた.

薩長の同盟も仲介した.

しかし、それぞれの藩は好意を寄せても、部外の人間ではある.

そこに1866年7月、土佐藩から後藤象二郎が長崎にやってきた.

後藤は藩主の信認が厚く、最高実力者である.

当時25歳であったが、長崎で汽船1隻を購入の予定であったところ.上海まで行って、7隻も購入する.

当然資金のやりくりが問題になるが、担当は土佐から来させた岩崎弥太郎である.

ただ、土佐藩はまだ藩外とのコネクションが不足である.

龍馬にはそれがある.

半年後の1867年2月、後藤、龍馬はついに会談を行い、共同で活動を行うことで意見が一致する.

龍馬は正式の藩士ではないが、土佐藩の後ろ盾ができ、薩長と対等な応対が可能になる.

 

 

 

また、これまで亀山社中は、薩摩藩の手当を受けていた.

土佐藩の正式外郭団体となった海援隊に、後藤は1万両を拠出し、手当も出す.

後藤は、龍馬のかつての師である武市半平太を追放し、切腹に追い込んだ人物である.

しかし、互いにそれには触れない.

龍馬の第八の教訓は、大仕事をなすときは、権力、財力を持つ機関を、対等な立場を持って利用するということである.

 

リンク:龍馬のレポート 1

    龍馬のレポート 3

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(おわり)

2016年10月19日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

54 龍馬のレポート 1:河田小龍、武市半平太、集団と個人

高知と言えば、坂本龍馬が連想される.

空港を始めとして、居酒屋、ラーメン、学校、タクシー、などなど、「龍馬」の名を被せた施設は、県内至る所に見受けられる.

イベントがあれば、龍馬の着ぐるみが出てくる.

今では龍馬は、高知の単なる観光イメージキャラクターに過ぎないように思われる.

しかし、龍馬は高知に何を教えるのか.

今一度考え直してみよう.

 

2016年10月18日 最終版

 

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(桂浜)

 

1.打って出る

 

龍馬は1835年、裕福な家の次男坊として生まれた.

1853年、18歳のとき、江戸に留学に向かった.

剣術修行ではあるが、当時実用的な剣術はほとんど不要であった(後の動乱の時代で有効にはなるが).

今でいえば、サッカーのスポーツ留学のようなものである.

身分制など、何かと束縛の多い高知を脱出する.

政経の中心で自由に生活し、部活に励むことに、心は踊ったであろう.

しかもこの年、黒船が来航し、江戸、そして日本は混乱の時期になる.

龍馬は、高知では決して体験ができない、新しい世界に触れることになる.

龍馬の第一の教訓は、見知った土地に留まらないということである.

今、東京は近過ぎて、龍馬のように別の世界に触れることにはならない.

海外である.

それも激動の地域でなくてはならない.

北京は候補の一つかもしれない.

 

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(高知港.クルーズ船の来航)

 

2.変化を捉える

 

龍馬は江戸に居るときには、外人が来れば首を打ち取る!などと、一人前の発言をしていた.

1年後に高知に戻った.

河田小龍を訪ねた.

 

 

小龍は、ジョン万次郎からアメリカの事情を詳しく聞き、著書にしている.

-日本はガラパゴス体制である-

また、肥前藩の技術を継承した、薩摩藩に反射炉技術を学んでいる.

-藩体制の否定である-

洋式の汽船と航海術を取りいれることが急務であると主張している.

-技術革新である-

さらに、土佐藩では防衛に不足であるとして、農民から民兵を募っていた.

-武士の否定である-

世の中は、江戸の単純な「世論」のようには動いていないことを認識する.

龍馬の第二の教訓は、表面的な世論に惑わされず、底に潜む変化を読み取るということである.

 

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(ジョン万次郎が生まれた中浜)

 

3.集団と個人

 

問題意識はあっても、一人では進展しない.

龍馬は、城下で道場を開いていた、6歳年上の武市半平太のグループに加わる.

後に土佐勤王党となるが、これは秘密結社めいたものではない.

土佐藩の方向は、守旧、革新と揺れたいたので、反体制ということでもない.

200名くらいのメンバーがいたが、必ずしも考えや行動が統一されてはいなかった.

ただ、武士はほとんど居なかった.

制約に縛られない、野党グループといってよいであろう.

盟約書には勇ましく、攘夷(アンチグローバル)、尊王(打倒現体制)と書かれている.

しかし、龍馬はそれに取り組んではいない.

ただこれによって、土佐領内のみならず、長州人、薩摩人との交流が生まれる.

そして、集団を離れ、日本各地へ向かう.

龍馬の第三の教訓は、集団に属しても闇雲に従うのではなく、互いに利用するということである.

 

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(武市半平太旧宅)

 

4.ネットワーク

 

龍馬は最初の江戸行きから2年後、21歳で再び江戸に向かい、2年後、1858年に帰る.

1861年、半平太の使いで、国境で長州人と会う.

その際、藩には丸亀に剣術勉強で赴くと届けた.

しかし、出てしまえば勝ちで、長州、大阪を回って帰る.

1年後、半平太は龍馬を長州に派遣し、長州人、薩摩人と連絡を取らせる.

龍馬はさらに、京、大阪を回って3ヶ月後、3月1日に高知に帰り、半平太に報告する.

そして、3週間後、3月24日に脱藩する.

藩命の制約、半平太のメッセンジャーには飽き足らず、自由な立場での行動をとる.

 

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(梼原.脱藩の道)

 

しかし、脱藩は周到な準備の下で行われている.

同志の強いサポートがなければ、高知城下から山道と船によって、6日間で長州に達することはできない.

また、予め長州と話しをつけておかなければ、潜入はできない.

龍馬は、長州から未知であった薩摩に向かうが、関所で拒否された.

その後、大阪から江戸に向かう.

 

 

 

何が龍馬をあちこちに駆り立てたのか.

「何でも見てやろう」なのか、「自分探しの旅」なのか.

いずれにしても、この間で次第に人脈は増して行く.

龍馬は、「茫洋としている」「遠慮がない」「ゆっくり話す」「愛すべき人」「本は読まない」などと評されている.

目から鼻に抜ける鋭利さは伺えないし、色黒で、イケメンでもない.

話し手が気を許して、つい本音を話してしまう、というタイプである.

龍馬の第四の教訓は、現場を足で回って、人的ネットワークを増す、ということである.

 

リンク:龍馬のレポート 2

    雪国梼原・龍馬脱藩の町

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(おわり)

2016年10月9日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一