57 高知の山のドライブ:瓶ヶ森の霧氷、天狗高原の夜明け

四国を縦断して、背骨のように高い山が連なっている.

これらの山々が、各県の県境になっている.

そこには山岳道路もある.

東には、徳島県の標高1,954mの剣山がある.

そこから西に、1,500mクラスの山がずっと続く.

愛媛県の石鎚山は、西日本最高で1,982mである.

南に進むと、石灰岩のカルスト台地である、1,485mの天狗高原である.

石鎚山系の瓶ヶ森と天狗高原を訪ねてみよう.

 

2017年4月23日 最終版

 

 

1.  瓶ヶ森

 

(町道 瓶ヶ森線)

 

高い山の多くは、頂上かなり近くまで自動車道がある.

石鎚山には、北側からはロープウエイがあり、南側からは「スカイライン」で登ることができる.

ただし鎖を伝って登るなど、修行、登山の覚悟が必要で、観光気分では行けない.

愛媛県は、その瀬戸内沿岸がほとんど工場地帯になっているので、大変富裕である.

従って、県道の石鎚スカイラインは2車線で整備されている.

一方、瓶ヶ森は1,896mでやや低いが、車道から見通しの良い笹原を通って、頂上まで1時間もかからない.

小学生でも容易である.

こちらは、高知県の領域で、石鎚に繋がる尾根を通る林道で行く.

林道は「いの町道」なので狭い.

しかし、広いと自然破壊は進む.

ときどき大きく崩れ、町が維持するだけでも大変である.

 

kamegamorimuhyou

(沿道の山々)

 

北面から稜線にかけて、枝葉は桜が咲いたように白い.

似た高さの、屋久島、宮之浦岳は海から尖って聳えている.

海岸から頂上には直線距離で15kmほどである.

石鎚も海岸から山頂まで、同じような距離で近い.

石鎚山系は、あたかも屋久島が連なったような壁になって、海に面している.

北風は壁に当たり、急上昇し、急冷される.

そこで木々に霧氷を咲かせることになる.

 

muhyounoki

(霧氷)

 

瓶ヶ森まで登るつもりであったが、ガスの中である.

翌日にして、1,450mにある山荘に早々と向かった.

珈琲を飲みに立寄っているツーリングの若者たちはいるが、宿泊は我々だけである.

部屋を用意していただき、炬燵で昼寝やら持ってきた本を読むやら、夕方になった.

山荘は吉野川の源流域にあり、ブナ林から滲み出る水はまことに清冽である.

食後、薪の燃える前で、喉に染み入る水を肴に、白ワインを1本空けてしまった.

 

makinoakari

(山荘の火)

 

山荘の管理者の娘さんは小学生だが、通学では、麓に車で30分送ってスクールバスに乗せる.

バスは30分かかって学校に着く.

帰りも同じで、1時間以上はかかる.

町道は12月から積雪で通行止めになる.

山荘も11月末で閉ざし、一家5人は下に降りる.

 

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(朝の石鎚山)

 

翌朝は晴れて、石鎚と海岸の町が見える.

管理者一家に見送られて、瓶ヶ森に向かう.

気温が高まり、霧氷が滴り落ちる.

 

 

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(瓶ヶ森山頂)

 

2.天狗高原

 

四国の山は石灰岩質のところが多い.

天狗高原は、侵食され、広大な土地に石灰岩が点々と露出するカルストになっている.

昔は焼畑農業が行われたが、現在は一面ススキの原になっている.

 

tengunosusuki

(天狗高原)

 

tengunomiti

(夕暮れのカルスト台地)

 

 

登るにはいくつかのルートがある.

一般的には、197号から2車線の東津野城川林道を通る.

地図などでは、国道、県道を通るルートが示されるが、こちらは逆に狭くて、屈曲が多い.

林道は、1969年に計画がつくられた、土佐清水から伊野北部に至る、延長188kmの幹線林道計画の一部なのである.

本来の伐採、運搬の用というより、観光路線になっている.

これより北にある小田池川林道も、同じように大規模だが、どこにも繋がっていないので交通量はゼロに近い.

繋がれば観光路線になる要素はあるのだが.

今回は梼原から、龍馬脱藩の道、韮ヶ峠に上がった.

高原の道は、尾根を緩やかなうねりで続いている.

春から夏は牛が放牧されるが、今は牛舎に戻っている.

 

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(宿舎の朝)

 

高原にはT荘がある.

山の上に旅館があるイメージで、格別変わってはいないが、夜には星の観察会がある.

高知市内から車で2時間程度、町営バスもあり、日帰りが十分可能である.

泊り客も多い.

山上の道は冬季閉鎖されるが、ここは年中の営業である.

ただ下から登る車道には、厳冬に積雪、凍結がある.

 

tengunoyuki

(橇遊び)

 

高知で雪遊びができるところはほとんどない.

ここには元スキー場の斜面があり、子どもたちがレンタル橇で遊ぶ.

上は結構急斜面で、速度が出てひっくり返ったり、ぶつかったりしているが、高知ではすべて自己責任である.

高原で泊まるには晴天に限る.

雨なら雲の中である.

秋の朝、日の出前5時半には、ほとんどの泊り客が表に出てくる.

朝日が昇る.

 

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(高原の朝日)

 

低い谷間は雲海である.

tennguunkai

(麓を見下ろす)

 

関連記事リンク:高知の雪国・梼原と脱藩の峠

楮佐古林道のダート道

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(おわり)

2016年11月19日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

56 龍馬のレポート 3:後藤象二郎と岩崎彌太郎、未完に終わる大目的

高知では、何かとネーミングにつくことが多い「龍馬」.

観光振興といえば、国内、海外向けを問わず、「龍馬」が出てくる.

いささか「龍馬」には飽きが来ている気もするが.

しかし、改めて龍馬の生涯を振り返ってみると、そこには沢山の教訓が残されている.

その1と2では、八つの教えを記した.

京都で一生を終えるまでの期間を辿る.

 

2017年4月7日 修正版

 

 

1.タフコーディネーター

 

(瀬戸内海)

 

1867年の長崎には、3人の土佐人が揃っていた.

坂本龍馬、後藤象二郎、岩崎弥太郎である.

彼らに共通するのは、タフコーディネーターであることである.

自分の意志を明確に持ち、それを貫く.

その点では「いごっそう」と言えるが、硬直的に主張するのではない.

1867年4月、龍馬がリースした船が、瀬戸内海で紀州藩船と衝突し、沈没した.

相手は、徳川御三家の政治力で処理しようとするが、龍馬は硬軟両方で対応する.

事実関係から「万国公法」に照らすとして、国際的な自船航路の正当性を主張する.

一方、紀州に否があるとする歌を流行らせ、紀州討伐の噂を流して世論に訴える.

最後に、土佐藩を代表する象二郎が表に出て、決着させる.

1867年9月、長崎で土佐人が英国水兵を殺害した疑いで、英国公使パークスと通訳のサトウが須崎にやってきた.

 

(須崎湾)

 

後藤象二郎が対応する.

パークスは、これまでアジア各地でやってきた流儀で、頭から罵声を浴びせる.

同席の幕府重役はおたおたする.

象二郎は冷然として、その態度では交渉にならないと言い放つ.

パークスは応対の率直さを逆に評価し、以後親しくすることを誓い合う.

 

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(高知城下)

 

岩崎彌太郎は、長崎の土佐藩出張所のよろず責任者であった.

象二郎はやたらと艦船購入に金を使うし、藩が世間知らずで外国人と交わした諸契約ももめている.

自転車経営で、借金返済のために内外で借金をする.

接待漬けにしてうやむやにする.

彌太郎は、いつでも、どこにでも、足まめに出歩く人物であったと伝えられる.

いつの時代でも、フェイスとフェイスのコミュニケーションが、交渉の基本である.

外国語はできなかったが、弱い立場でありながら、外国人と対等以上の態度で、海千山千の戦争商人と渡り合う.

自身の遊興が過ぎるとして、更迭の話も出るが、余人には代え難く、いつも沙汰止みとなる.

龍馬の教訓の第九は、リーダーはタフな折衝ができなければならない、ということである.

 

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(岩崎彌太郎生家)

 

2.箇条書き

 

1867年当時、幕府は長州との戦争にも敗れ、統率力に欠けてきたことは明らかであった.

それではどうするか、各大名はドイツ、英国の憲法、議会制度も調べる.

徳川は退陣し、藩主などによる会議を設け、結果を天皇を長とする朝廷が発令する仕組みが、大方の意向である.

英国は日本とどのように接するか、公使を始め、外交官が各地を回り、情報を収集していた.

その一人、日本語を駆使し、日本人以上に日本の機微に通じるとされた、アーネスト・サトウも、上のような趣旨を、1866年、横浜の英字新聞に寄稿している.

それが日本語に翻訳され、「英国策論」として印刷され、各地の書店で販売された.

1867年1月、サトウが宇和島藩主から、これを読んだと告げられているが、衝撃的な内容とは受け取られていない.

 

しかし、徳川退陣を自主的に行うのか、クーデターによるのか、その後の主導権争奪、各藩の内情などがからんで、流動的であった.

1867年6月、後藤象二郎は龍馬を伴って、京都に行く.

土佐藩を代表し、各方面と接触するためである.

その際、船上で作成されたのが「船中八策」である.

内容は議会制、朝廷の関与など、これまで検討されてきたことであるが、各人の胸の内にあるのではなく、明文化さている.

それもよくある美文調ではなく、簡潔な八個の箇条書きで、理解されやすい.

龍馬の第十の教訓は、方針は簡単明瞭な箇条書きで示されなくてはならない、ということである.

 

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(上野公園)

 

3.改革での危険

 

龍馬は1866年1月、薩長同盟成立の翌日、伏見の寺田屋にいるところを襲撃された.

重傷を負ったが、お龍のおかげで薩摩藩邸に引き取られた.

1867年10月、徳川の自主的退陣「大政奉還」の表明後、龍馬は福井に行くなど、後藤と共に事後策に追われていた.

ひと月後、11月15日に京都の下宿で暗殺される.

 

(京都の町)

 

土佐藩が駆け付けるが、間に合わない.

いずれも予想されたことである.

なぜ事前に薩摩、土佐の藩邸に居を構えなかったのか.

龍馬のこれまでの行動からして、彼の大目的は、閉鎖的な藩の解体、武士を頂点とする身分制の打破であったと想像する.

藩を否定する考えを持つのに、危険だからと庇護を受けるわけにはゆかない.

龍馬は大目的の達成に向けて、次の段階をどのように考えていたかはわからない.

しかしその後、土佐藩士であった自由民権の板垣退助、中村出身で帝国主義を否定した幸徳秋水、高知の家系で敗戦後の民主主義下の吉田茂、と繋がって行くのではないだろうか.

龍馬の最後の教訓は、所信を貫くには必ず危険が伴う、ということである.

 

 

リンク:龍馬のレポート 1

    龍馬のレポート 2

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参考にした主な文献

1)池田敬正:「坂本龍馬」、中公新書、1965

2)大橋昭夫:「後藤象二郎」、三一書房、1993

3)伊井直行:「岩崎彌太郎」、講談社現代新書、2010

4)アーネスト・サトウ:「一外交官の見た明治維新」上下、岩波文庫、1960

 

(おわり)

 

 

2016年11月4日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

55 龍馬のレポート 2:勝海舟、後藤象二郎、権力との付き合い

現在では、すっかり高知の観光イメージキャラクターになっている坂本龍馬.

しかし改めて考えると、龍馬の残した数々の教えがある.

その1では、江戸への留学から、各地の放浪まで、四つの教訓を述べた.

その後の、先端技術への挑戦を始めに、続けて考えよう.

 

2016年10月30日 最終版

 

1.先端技術

 

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(高知港の護衛艦)

 

龍馬は、当時の最先端技術である、洋式船に携わりたいと考えていた.

すでに黒船を見ているし、開港された横浜には、外国船が頻繁に出入りし、貿易が活発である.

国防、交易だけでなく、輸送の革命をもたらすものである.

薩摩から江戸一帯を徒歩で旅した龍馬には、それがどれだけの効果もたらすか、身に染みてわかる.

1862年に脱藩して、海軍奉行並の勝海舟への接近を考えた.

しかし、幕府の要職にある人に、いきなり「たのもう!」という訳にはいかない.

伝手から伝手をたどる.

龍馬は、目を吊り上げて平伏し、「お願いします!」というタイプではない.

各地の生の情報を基に、あれこれと話す.

その内に、聞き手は「そんなことを考えているのか、それならこの人に会ってみては」などとなる.

一浪人だが、最終的には越前藩主、松平慶永の紹介を得て、勝海舟の部下となる.

龍馬の第五の教訓は、先端技術に果敢に挑戦するには、周到な事前準備が必要ということである.

 

2.リクルート

 

勝海舟は、1860年の咸臨丸でのアメリカ航海の体験で、軍艦乗組員の育成が重要であることを認識していた.

船は金を出せば、外国から購入できる.

しかしその乗組員は、時間と手間をかけて、国内で育てなくてはならない.

船の運航は肉体労働を伴う.

命令だけする武士ではどうにもならない.

龍馬は意を受けて、土佐で馴染みの、末端に位置する若者を多数リクルートする.

そうなると、脱藩の犯罪人では具合が悪い.

海舟の口利きで、土佐藩より罪が許され、正式に活動が許される.

海舟は1863年4月、神戸に海軍操練所を設立することになり、龍馬が塾頭に任ぜられる.

広く、幕臣、藩、家柄を問わない、有為の人材を募集する.

龍馬は希望に満ちた充実の日々を送る.

海舟を通じ、これまで繋がりがなかった薩摩とも親交が生まれた.

龍馬の第六の教訓は、人材はフィルターにかけて集めるのではなく、自身の責任で育てるということである.

 

kobenoyoru

(神戸港の夜)

 

3.ビジネス

 

当時の政治は、薩摩、長州などの強力な藩を取り込むか、フランスの援助を基に旧体制を維持するか、揺れていた.

後者が勝ち、1864年10月、海舟は失脚し、1年半で海軍訓練所は閉鎖される.

では今居る所員と共にどうするか.

 

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(長崎、グラバー邸)

 

自ら道を切り開くしかない.

龍馬は薩摩から江戸を奔走する.

長崎は昔からの国際貿易港であり、船舶、武器を扱う外国商人が多く出入りしている.

乱世ではビジネスチャンスが多く、ここに本拠を置く.

亀山社中、そして後の海援隊である.

 

 

 

 

事業内容は次のようである.

1)訓練の成果を生かした、船舶の運転

2)自由な立場を生かした、各藩の船舶、武器、糧秣購入の斡旋、仲介

3)自己保有船、借用船による運送

特に、表面には出難い長州、基盤の人材に不足勝ちな薩摩には重宝がられる.

ただ運送業は、嵐による沈没、他藩船との衝突など、不運続きであった.

龍馬の第七の教訓は、今居る組織が解体されても、培った技術を展開してビジネスにするということである.

 

4.権力と財力

 

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(桜島)

 

龍馬は次第に政治の世界に入る.

尊王攘夷!などと叫ぶ、観念的なイデオロギーではない.

階級によらず努力する普通の人たちが、制限なく活動し、外国に負けない技術を持つ日本をつくる.

これまで目指してきたことである.

しかし、体制を変えないことにはどうにもならない.

そのため、実力を持つ薩摩、長州と行動を共にしてきた.

薩長の同盟も仲介した.

しかし、それぞれの藩は好意を寄せても、部外の人間ではある.

そこに1866年7月、土佐藩から後藤象二郎が長崎にやってきた.

後藤は藩主の信認が厚く、最高実力者である.

当時25歳であったが、長崎で汽船1隻を購入の予定であったところ.上海まで行って、7隻も購入する.

当然資金のやりくりが問題になるが、担当は土佐から来させた岩崎弥太郎である.

ただ、土佐藩はまだ藩外とのコネクションが不足である.

龍馬にはそれがある.

半年後の1867年2月、後藤、龍馬はついに会談を行い、共同で活動を行うことで意見が一致する.

龍馬は正式の藩士ではないが、土佐藩の後ろ盾ができ、薩長と対等な応対が可能になる.

 

 

 

また、これまで亀山社中は、薩摩藩の手当を受けていた.

土佐藩の正式外郭団体となった海援隊に、後藤は1万両を拠出し、手当も出す.

後藤は、龍馬のかつての師である武市半平太を追放し、切腹に追い込んだ人物である.

しかし、互いにそれには触れない.

龍馬の第八の教訓は、大仕事をなすときは、権力、財力を持つ機関を、対等な立場を持って利用するということである.

 

リンク:龍馬のレポート 1

    龍馬のレポート 3

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(おわり)

2016年10月19日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

54 龍馬のレポート 1:河田小龍、武市半平太、集団と個人

高知と言えば、坂本龍馬が連想される.

空港を始めとして、居酒屋、ラーメン、学校、タクシー、などなど、「龍馬」の名を被せた施設は、県内至る所に見受けられる.

イベントがあれば、龍馬の着ぐるみが出てくる.

今では龍馬は、高知の単なる観光イメージキャラクターに過ぎないように思われる.

しかし、龍馬は高知に何を教えるのか.

今一度考え直してみよう.

 

2016年10月18日 最終版

 

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(桂浜)

 

1.打って出る

 

龍馬は1835年、裕福な家の次男坊として生まれた.

1853年、18歳のとき、江戸に留学に向かった.

剣術修行ではあるが、当時実用的な剣術はほとんど不要であった(後の動乱の時代で有効にはなるが).

今でいえば、サッカーのスポーツ留学のようなものである.

身分制など、何かと束縛の多い高知を脱出する.

政経の中心で自由に生活し、部活に励むことに、心は踊ったであろう.

しかもこの年、黒船が来航し、江戸、そして日本は混乱の時期になる.

龍馬は、高知では決して体験ができない、新しい世界に触れることになる.

龍馬の第一の教訓は、見知った土地に留まらないということである.

今、東京は近過ぎて、龍馬のように別の世界に触れることにはならない.

海外である.

それも激動の地域でなくてはならない.

北京は候補の一つかもしれない.

 

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(高知港.クルーズ船の来航)

 

2.変化を捉える

 

龍馬は江戸に居るときには、外人が来れば首を打ち取る!などと、一人前の発言をしていた.

1年後に高知に戻った.

河田小龍を訪ねた.

 

 

小龍は、ジョン万次郎からアメリカの事情を詳しく聞き、著書にしている.

-日本はガラパゴス体制である-

また、肥前藩の技術を継承した、薩摩藩に反射炉技術を学んでいる.

-藩体制の否定である-

洋式の汽船と航海術を取りいれることが急務であると主張している.

-技術革新である-

さらに、土佐藩では防衛に不足であるとして、農民から民兵を募っていた.

-武士の否定である-

世の中は、江戸の単純な「世論」のようには動いていないことを認識する.

龍馬の第二の教訓は、表面的な世論に惑わされず、底に潜む変化を読み取るということである.

 

nakahamanomati

(ジョン万次郎が生まれた中浜)

 

3.集団と個人

 

問題意識はあっても、一人では進展しない.

龍馬は、城下で道場を開いていた、6歳年上の武市半平太のグループに加わる.

後に土佐勤王党となるが、これは秘密結社めいたものではない.

土佐藩の方向は、守旧、革新と揺れたいたので、反体制ということでもない.

200名くらいのメンバーがいたが、必ずしも考えや行動が統一されてはいなかった.

ただ、武士はほとんど居なかった.

制約に縛られない、野党グループといってよいであろう.

盟約書には勇ましく、攘夷(アンチグローバル)、尊王(打倒現体制)と書かれている.

しかし、龍馬はそれに取り組んではいない.

ただこれによって、土佐領内のみならず、長州人、薩摩人との交流が生まれる.

そして、集団を離れ、日本各地へ向かう.

龍馬の第三の教訓は、集団に属しても闇雲に従うのではなく、互いに利用するということである.

 

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(武市半平太旧宅)

 

4.ネットワーク

 

龍馬は最初の江戸行きから2年後、21歳で再び江戸に向かい、2年後、1858年に帰る.

1861年、半平太の使いで、国境で長州人と会う.

その際、藩には丸亀に剣術勉強で赴くと届けた.

しかし、出てしまえば勝ちで、長州、大阪を回って帰る.

1年後、半平太は龍馬を長州に派遣し、長州人、薩摩人と連絡を取らせる.

龍馬はさらに、京、大阪を回って3ヶ月後、3月1日に高知に帰り、半平太に報告する.

そして、3週間後、3月24日に脱藩する.

藩命の制約、半平太のメッセンジャーには飽き足らず、自由な立場での行動をとる.

 

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(梼原.脱藩の道)

 

しかし、脱藩は周到な準備の下で行われている.

同志の強いサポートがなければ、高知城下から山道と船によって、6日間で長州に達することはできない.

また、予め長州と話しをつけておかなければ、潜入はできない.

龍馬は、長州から未知であった薩摩に向かうが、関所で拒否された.

その後、大阪から江戸に向かう.

 

 

 

何が龍馬をあちこちに駆り立てたのか.

「何でも見てやろう」なのか、「自分探しの旅」なのか.

いずれにしても、この間で次第に人脈は増して行く.

龍馬は、「茫洋としている」「遠慮がない」「ゆっくり話す」「愛すべき人」「本は読まない」などと評されている.

目から鼻に抜ける鋭利さは伺えないし、色黒で、イケメンでもない.

話し手が気を許して、つい本音を話してしまう、というタイプである.

龍馬の第四の教訓は、現場を足で回って、人的ネットワークを増す、ということである.

 

リンク:龍馬のレポート 2

    雪国梼原・龍馬脱藩の町

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(おわり)

2016年10月9日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

53 高知の東端:野根、甲浦とこけら寿司

高知県で、もっとも東に位置するのは、東洋町である.

室戸岬のまだ先で、ほとんど徳島県と言ってもよい.

高知市から南へ室戸に1時間半、岬を回って向きを変え、北にさらに1時間で達する.

しかし、走っている高速バスでは、高知市より大阪に近い.

「東洋町」とは大きく出た名だが、野根と甲浦が合併してできた.

どちらに役場を置くかで揉め、当初2年ごとに、両集落を代わる代わる移動していた.

新庁舎を中間に建設し、決着した.

 

2017年3月31日 修正版

 

 

1.室戸から北へ

 

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(岬を回って)

 

室戸から野根へ、25kmの国道は、すべて海岸の断崖を削ってつくられている.

昔はこの道はなかったから、遍路は波打際の岩を越え、石を伝って歩いた.

波が高いとさらわれる危険がある.

今でも海が荒れると、波は国道まで越えて来る.

ガードレールはすっかり錆びている.

断崖がつきたところが野根である.

 

⒉ 野根

 

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(野根の旧道)

 

野根は、参勤交代に利用された「野根山街道」の古い宿場町である.

町の両端は鍵の手に曲がる「桝形」になっていて、その面影を残している.

古い旅館もそのままである.

野根から室戸へ向かう遍路は、海が穏やかでないと、波打際を歩けない.

そのため、荒れたときは、7日も10日も「潮待ち」をしなくてはならなかった.

懐の乏しい遍路を、無料で泊める「善根宿」が多かったと伝えられる.

その間、遍路も農作業や薪割りを手伝ったことであろう.

家の前に、小さなベンチがあって、お年寄りが集まっている.

もとは雨戸を下ろして座る「ばったり」であった.

道に沢山の花の鉢があって、おばあさんが横に座っている.

花の出張販売だった.

おじいさんは、鉢を運んだ軽トラの棚に板を敷き、昼寝中である.

 

3.野根の朝市

 

野根には「道の駅」的な設備がない.

そこで、地元のご婦人方が、土曜の午前に「朝市」を開いている.

予約していた「こけら寿司」と野菜を買った.

 

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(野根の朝市)

 

カメラを持っていたので、「写すのかと思った」と言われた.

「写します、写します」とカメラを向けた.

「撮らないで!」と言われたが、広告にもなるし、ま、いいか.

 

4.こけら寿司

 

kokerazusi

(こけら寿司)

 

この地特有の押し寿司である.

柚子酢の寿司飯に、焼きサバをほぐして入れる.

まず木枠に1段目を詰め、椎茸、人参、薄焼き卵の具材を並べ、人参の葉を散らす.

上に細長い薄い板(こけら)を敷く.

このようにして順次5、6段詰め、重しを乗せ、1時間ほど置く.

大きい枠では、1段に1升詰まる.

生ものを使わない、素朴なベジタブル食である.

重石が中途半端ではないので、「投げても壊れない」と言われるほど堅く、相当に食べでがある.

 

5.生見のサーフィン

 

北に行くと、生見(いくみ)である.

サーフィンで有名である.

高知では他に、仁淀川河口、大月から四万十川河口にかけて、サーフィンビーチが多い.

しかし遠いから、地元民が中心である.

生見は大阪に近いので、賑わっている.

 

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(生見のサーファー)

 

残念ながら、今日は波が穏やか過ぎる.

町では、ネットに浜の波をリアルタイムで流している.

 

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(生見の店)

 

サーファーのための民宿や食堂が何軒かある.

海を見渡すウッドデッキなど並び、湘南海岸もかくや、の風景である.

大渋滞はないが.

 

6.甲浦

 

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(白浜)

 

さらに北に行くと甲浦である.

入江にある遠浅の浜は、海水浴場になっている.

今はシーズンオフだが、真夏でもそう変わりはない.

高知は甲浦から足摺まで、すべて海に面している.

どこかで何かのマリンスポーツができる.

 

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(甲浦港)

 

高知市内から甲浦まで車で2時間半、高知の辺境のように思われる.

しかし、実は高知県でもっとも大阪に近い.

甲浦から大阪へ、一日に5-6便ある徳島経由の高速バスで4時間半、高知からは5時間である.

昔、橋のない頃、甲浦には大阪からの船が発着し、高知の東の窓口であった.

フェリーの岸壁、昔賑わったであろう、食堂や商店の建物が残っている.

今はダイビングや釣りの渡船の店である.

 

7.野根山街道

 

地図を見ると、高知市から甲浦まで、室戸岬を回って、三角形の二辺を通っていることになる.

ショートカットして、底辺を通れないのか.

それをやっているのが、江戸時代の野根山街道である.

 

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(野根から旧街道方面を見る)

 

奈半利から山に登り、尾根筋を通って、野根に降りる.

今も登山道だが、全行程は35kmあり、ハードである.

古道だけに、笑い栂、宿屋杉、お産杉、装束峠、花折峠など、伝説の場所が多い.

 

 

尾根筋の下を林道が通じているので、そこから探訪することも可能である.

また川に下り、ショートカットする国道もある.

大体は広いのだが、なにせ山の道で曲がりくねっているので、時間短縮にはならない.

四郎ヶ野峠を下ると、小川川が音を立てて流れている.

 

ogawagawa

(小川川)

 

関連記事リンク:室戸の街と岬

        高知で地震を避難1:100年周期

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(おわり)

 

2016年9月22日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

52 高知の映画館、温泉、美術館、公園、こんなところに…. 2.

高知のこんなところに…こんなものが….

とんでもないところに、とんでもないものがある.

考えられないところに、映画館、温泉、美術館、公園.

皆、手造りである.

つくりたくなれば、自分でつくる…それが高知である.

いごっそう、はちきんの産物と言ってもよいだろう.

 

(2017年2月14日 修正版)

 

1.映画館

 

D劇場は高知で著名である.

室戸に向かう国道を1時間、左折して鮎で名高い安田川を遡る.

鮎のはらわたからつくる塩辛、酒飲みには堪えられない「うるか」が近くで入手できるほどの清流である.

渓流に沿って2kmほど行くと、橋を渡るよう小さな看板がある.

映画館への入口である.

 

dasisin

(D劇場.豪雨で増水中)

 

どうしてここにあるのか、わからない.

館主は、高知各市町村のご当地ソングをつくって活動するミュージシァンである.

もぎり、内装など、館主の手づくりである.

 

daisinnaibu

(客席)

 

毎日の上演はないが、思い出したように、というほどでもない.

固定客もいる.

フィルム映写機があり、大体は「ひばりの…」など昔の映画である.

プロジェクターがあるので、デジタル新作も扱う.

特攻を扱った作品が上映された.

内容は地味だが、高知出身のM歌手が出演するシーンがある.

一日2回、1週間の興行が満席で、当館開設以来の入りだった.

 

⒉ 手造り温泉

 

高知には、道後のように自然に湧く温泉はない.

しかし、深くボーリングして湧出する温泉、冷泉を沸かした温泉はあちこちにある.

Y温泉旅館もその一つである.

 

yamazatoonsen

(Y温泉)

 

須崎から国道を行き、山にそれる.

人家が途絶え、狭い山道で、この先で温泉が営業しているのか不安になる.

やがて古い看板が現れ、橋を渡って、木立の中に旅館が見える.

ラプラドルが盛大に吠えて迎える.

最近、中国の団体やフランス人が来たそうだが、「秘境の旅」だったのだろうか.

温泉は谷にある.

 

yamazatonoyu

(Yの湯)

 

日曜大工で、河原の石をセメントで固めた、凸凹の浴槽、洗い場である.

建物は失礼ながら掘立小屋で、随所から空が覗く.

主人が何としても、ここで風呂に入りたかったのであろう.

泉源からパイプで引き、薪で沸かしてタンクに貯める.

林間に薪の燃える匂いがしている.

高知には、小さな浴槽一つを交代で入る、林の中の桧風呂、穴蔵の奥、など自己主張の温泉があった.

廃業や改築でなくなったので、今はここが「とんでも温泉ランキング第一位」である.

 

3.美術館

 

白木谷は、梅林、そして切り口が四角の四方竹の産地として有名である.

高知市の東北になる山の中である.

小学校は残り、全校生徒24人でがんばっている.

そこに「白木谷国際現代美術館」がある.

 

siorakidanibijyutukan

(美術館)

 

つくったのは、M.T氏である.

この地で工務店をやりながら、前衛絵画を描いていた.

しかし、絵では物足りなくなり、海岸で200トンの玉石を譲り受け、ここにインスタレーションをつくった.

ところが、そのままでは草に埋もれてしまう.

それなら、いっそ美術館をつくる、と思い立った.

 

sirakidanisakusya

(美術館内部.壁の人物が作者)

 

川沿いの倉庫を拡張し、家族、知人で建設を行った.

今も年々、新築、改築が続いている.

美術館そのものが作品である.

壁、柱こそむき出しだが、元工務店主だけに、構造は本格的である.

基礎のコンクリートも普通の倍は入っているという.

 

sirakidanitenji

(展示室の一部)

 

自作以外に、美術展の出展作、しかし始末に困る?大作の展示場ともなっている.

ピアノがあり、ジャズセッション、演奏会も開かれる.

 

sirakidanimonyumento

(工事中? いや制作中)

 

美術館には屋外展示場があるが、いま、その川向うで制作が進んでいる.

作者が鉄筋を溶接中で、順次道路から、生コンをコンクリートポンプ車で圧送する.

鉄筋は太く、県道の橋脚工事と言っても、だれも疑わないであろう.

野外ステージとしても使えるようにするらしい.

今は仮橋だが、いずれ本格的架橋?制作が進むと思われる.

 

 

4.トンボ公園

 

tonbokouen

(公園の保護区)

 

高知県の西、中村にあるトンボ公園は、公式ガイドブックにも載っている施設である.

場所は、中村市街地の四万十川対岸で、とんでもないところではない.

施設はトンボの標本を始めとした資料館、川魚を中心とした水族館からできている.

そして、谷に沿って1km近く奥に延びる「トンボ保護区」がある.

四万十川と自然は結びつくものの、どうしてここに「トンボ」なのだろうか.

 

tonbohogoku

(トンボ保護区)

 

施設は市がつくったものでも、県がつくったものでもない.

創設者のS氏の想いである.

S氏は地元のトンボ少年であった.

高校3年のとき、かねて観察を続けてきた、ある種の生息地が工事で埋め立てられてしまった.

そこで、保護地をつくる、と決意したのである.

今は社団法人で、WWF、市、県の援助もあるが、基本はトンボを愛する人たちの支援である.

最近、自宅付近で、以前は見なかった、オニヤンマなどが飛ぶようになった.

耕作放棄地が増え、農薬の使用が減ったためらしい.

もっとも、最近増えているソーラーパネル設置地で、大量の除草薬を使ったりするので、油断はならない.

しかし、積極的に保護し、育てようとすれば、場所を自然にまかせて放置する、というものではない.

茂る草を刈り、湿地を維持する、地道で苦労の多い作業が必要である.

その甲斐があって、いま70種類以上が生育している.

見たことがない、クリーム色の細いトンボが飛んできた.

 

 

リンク:こんなところに… 1 庭園、本屋、パン

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(おわり)

2016年9月8日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

51 高知のこんなところに?1 ガーデンカフェ、蕎麦、本屋、パン

高知のあちこちを歩くと、こんなところに…なぜこんな店が…と思うことがある.

出店への理屈はない.

経営学者が唱える、マーケティングや地域政策を越えた存在である.

これには二つの理由がある.

第一に、ぜひそこに住みたい.

第二に、ぜひこの仕事をしたい.

この二つが両立されるとき、高知のとんでもないところに、とんでもない店ができる結果になる.

これは、他の四国3県には見られない、高知に特有の「現象」ではないか.

よそでは商売、実利が先で、「理屈抜き」は考えられない.

 

2017年4月2日 修正版

 

 

1.山北

 

山北はごめん・なはり線、野市駅から車で約10分のところにある.

高知で「みかん」と言えば、ここの「山北みかん」である.

緩い南斜面に、「みかんの花咲く丘」が連なる.

季節には、大規模なみかんの「良心市」が設けられ、無人のスタンドで百円玉を投入し、みんな大袋単位で買う.

 

⒉ イングリッシュガーデン

 

englishgarden2

(イングリッシュガーデン)

 

高知で「イングリッシュガーデンに行った」といえば、「英国旅行で公園巡りをした」ということではない.

山北の「イングリッシュガーデン」である.

もともとは文旦農家だが、一室はカフェで、モーニングやランチがある.

薔薇のシーズンは大変賑わう.

薔薇を沢山育てたいね、の思いが始まりらしい.

訪問者が来るようになり、イングリッシュガーデンみたいだね、ということで、今の姿になっている.

下には、ご家族のチェロ製作工房がある.

 

3.蕎麦屋さん

 

wabisukessoba2

(W蕎麦)

 

蕎麦屋がある.

山葵を自分でおろして、手打ち蕎麦をいただく.

ご主人は陶芸をやるのか、立派な煙突があり、蕎麦は作品と共に出てくる.

丘には、他にも和風カフェや喫茶店がある.

秋には、斜面一帯につくられた、個人の見事な懸崖菊園が公開される.

これらの住まいは、見晴らしの良いみかん畑の中に、ばらばらにある.

家を建てたとして、せっかく良いところにあるのだから、だれか来て欲しいという気になる.

「何かしたくなる」地域なのである.

 

4.美良布

 

美良布は土佐山田駅からJRバスで20分のところである.

なぜJR(以前は国鉄バス)かというと、鉄道を敷く計画があり、実現しなかったので、代行として走らせている.

下は物部川のダム湖だが、山間の殺伐とした湖と違って、昔から住まれた河岸段丘が湖岸になり、自然の湖の雰囲気である.

北岸は国道が通り、交通量が多いが、南岸は静かである.

湖岸の魅力的な土地だが、それだけにカフェの激戦区で、営業を止めたところを含むと5軒ある.

 

kohannoie

(元カフェ.ハーブ入り生姜シロップをつくっている)

 

ochosoto

(卵料理のレストラン)

 

自家製の卵を使ったレストランがある.

切って食べる大型プリンも、なかなかである.

昼下がり、近くの老婦人たちがコーヒーを飲みに来るのは、高知伝統の「喫茶店」でもある.

 

5.谷相

 

山に上がると谷相で、市営バスはあるが、通学用で便利は悪い.

上がってしまえば、トレッキング気分で歩くことができる.

 

taniainoyama

(谷相)

 

いろいろの人が外から来て住んでいる.

染色、織物、陶芸、紙漉きの工房があり、営業はしていないが、ハーブ園もある.

 

 

次の理由があるだろう.

・南斜面で、遠く西に開け、見晴らしがよい

・棚田があり、「日本の原風景」だが、高知空港に40分と近い

・複雑な地形で、思い思いのところに住居が建てられる

・周辺にアンパンマンミュージアム、高知工科大学があり、文化的雰囲気がある

「何かしたい人が集まる」地域である.

 

6.山の本屋

 

honyasanmisesaki

(本屋の入口)

 

もっとも高く、行き止まりの道にUの本屋がある.

暮らし、自然を中心にした古書店だが、コミックもある.

しかし一癖ある選書で、女店主の個性が伺われるというものである.

 

yamanohonyasitunai

(本屋の中)

 

山上でゆっくり本を選ぶ、というのも、外にはない楽しみである.

 

7.梼原

 

梼原は、高知市から一日6本のバスで3,4時間かかる、山の町である.

そこからさらに谷川の狭い道を行くこと3,40分、Cパン店が忽然と現れる.

「国道」に面しているのだが、名高い「酷道」439号(よさく)である.

町々を往来したり、観光客が通るような道ではない.

 

kokuduyosakutuno

(国道439号)

 

yuisuharapan2

(山のパン屋C)

 

田舎のパン屋というと、食パンにあんパン、カレーパンとなるが、そうではない.

バゲットを始めとした、「正統フランスパン」である.

大体、店名、看板はフランス語である.

スイーツ、ランチも洒落ている.

 

yusuharapannaka

(C店の中)

 

ご主人はこの地の出身だそうで、娘さん共々フランスに長期滞在した結果である.

東京近郊の住宅地などにあっても、おかしくない雰囲気といえよう.

といって、お高く留まっている、ということではない.

店は随分前からあるし、作業服の男性、軽のお母さんなど出入りしている.

同じ「酷道」沿いになるが、韓国料理・韓国風サウナは、ここをさらに上回る山の中である.

梼原は、失礼ながら、よくある公設的施設は今一歩に思うが、あちこちの「こんなところに」地域の特徴がある.

 

リンク:こんなところに?2 映画館、美術館…

高知への移住非公式ガイド 3 いごっそうになる

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(おわり)

 

2016年8月26日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

50  高知で地震を避難 3:安政地震、昭和地震、永長・康和地震タイプで発生するとき

高知のテレビでは毎日、地震に対する準備、心構えが放映される.

過去の地震はまず東海で発生し、次に南海に波及している.

1707年の宝永地震のように、東海、南海が分単位の差で発生する場合の逃げ方は、前に考えた.

しかし、同時発生とは限らない.

時間遅れ、年遅れの場合もある.

 

2017年3月15日 修正版

 

 

1.東海、南海に時間差があるとき

 

niyodohinanntower

(津波避難タワー、仁淀川河口)

 

宝永パターンでは、南海地震の警報を待つことなく、東海地震の発生情報をいち早く入手し、ただちに避難行動を取ることとした.

かねて目星をつけておいた場所に逃げ、スマホの画面で、報じられる東海の状況に見入る.

しかし、南海地震は起きない.

よかった、と胸をなで下ろし、家に戻って、お茶でも飲んでテレビを見るかと思う.

ところが、これは大変危険である.

 

⒉ 安政地震

 

それは、1854年の安政地震では、南海は東海の38時間後に発生しているからである.

発生原因は違うが、2016年の熊本地震では、第一、第二の間隔が28時間であった.

過去の地震の歴史でも、「ひとまず安心」を裏切るパターンが結構多い.

それは岩石が粘弾性の性質を持っているからである.

ゴムひもの端に錘を付け、ぶら下げる.

すぐには切れないが、そのまま吊るしておくと、少しづつ伸びてやがて切れる.

これが粘弾性である.

岩盤は堅そうだが、やはりこの性質があり、力がかかってもすぐに壊れるとは限らない.

時間が経ってからになるので、そこに油断が生まれる.

安政東海地震は、12月23日午前9時の発生である.

その日南海では何もなく一日が過ぎる.

翌24日、朝、昼とも異常なし.

夕方午後4時になって、南海地震の激しい揺れ、そして津波が襲う.

 

kesennumaima

(地震後バス化された気仙沼駅)

 

3.安政パターンへの対応

 

宝永パターンを恐れ、着のみ着のままで第一の避難場所に逃げた.

しかし、そこで南海地震が起きなければ、第二の避難を考える必要がある.

安政は38時間後だが、一応48時間、二昼夜の避難を目途としよう.

一旦家に戻り、急いで食料、飲み水を取り出す.

車で逃げることも考えられる.

 

エコノミー症候群があるから、かねて買っておいた簡易テントや寝袋を持つ.

しかし、欲張ってあれもこれもはよくない.

38時間とは限らない.

5時間後、10時間後かもしれない.

注意しなくてはならないのは、パニックの発生である.

次々報じられる東海の惨状、津波の映像は、ショックを与える.

テレビのコメント、行き交うネット情報は、すぐにもの南海地震発生を感じさせる.

我先に逃げる車で渋滞ができ、下手をすると、最悪の条件で揺れと津波を迎えることになりかねない.

パニックに巻き込まれない避難が必要である.

 

koasennta-

(高知コアセンター.深海で採掘された資料.南海トラフも研究対象である)

 

4.昭和および永長・康和パターン

 

ところが、48時間経っても南海地震は発生しなかった.

50時間後ということもあり得るが、第三の年遅れ、昭和(および永長・康和)パターンに入ったと考える.

昭和では、東海地震は11月24日に発生した(永長・康和は12月27日).

年末年始を過ぎるが、南海には異常がなく、春を迎える.

翌年の秋冬も地震は起きない.

翌々年の冬になる.

12月21日、南海地震が発生する(永長・康和は少し遅く、その冬の2月22日).

 

 

5.昭和パターンからの避難

 

sagahinannro

(土佐佐賀.津波高さ34.4mの予測だが、伊豆の下田も33mである)

 

東海が起きてから、南海が起きるまで、どのように過ごすか.

2年間テント生活は考えられない.

江戸時代以前では、天命として、破壊と復旧を繰り返すのみであった.

昭和では、戦争と敗戦を挟む、情報と行動が遮断された時期であった.

しかし現代では間隔が長いと、いろいろな事案が出てきて、社会的な問題が多くなる.

火山活動が活発になった麓の村のようなものであるが、収束はあり得ず、地震は必ず起こる.

1)臨戦態勢で臨む

いつでも秒単位で避難できるように構える.

戸棚は全部倒す.

テレビは床に置いて固定する.

頑丈な机を置き、室内に避難シエルターを設ける.

2)疎開をする

断層地震から相当経った地域は歪が解放されているから、淡路島など考えられるが、遠い.

高台で耐震性がある建物、たとえば、学生用ワンルーム、マンスリーマンションなど考えられるが、お金はかかる.

いずれ「仮設住宅」を建てることは間違いないのだから、前もって「疎開住宅」があれば多目的に使える.

いずれにせよ、厳戒態勢や疎開は9月から3月までの半年で、春になれば戻る.

 

nisibunyougan

(西分漁港.フィリピンプレートで赤道から運ばれてきた溶岩)

 

大変なようだが予測ができる.

突然に強烈に襲う直下型地震、揺れから3分で津波が来る地域より、ずっと安全である.

 

6.地震後の高知

 

この地震後に、高知に再び地震が起こるのは100年後である.

東北のように、急いで堤防の嵩上げ工事をする必要は全くない.

フィリピンプレートが、大地に楔のように打ち込まれ、地震を寄せ付けない.

広く開かれた土佐湾には、他所から津波が来ることもない.

高知は、日本一安全な土地になる.

高知の黄金時代が待っている.

 

sakarikouiji

(建設中の防波堤、盛、2016年)

 

リンク:高知で地震を避難 1

    高知で地震を避難 2

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参考にした文献

・尾池和夫:「2038年 南海トラフの巨大地震」、マニュアルハウス、2015

・山岡耕春:「南海トラフ地震」、岩波新書、2016

・寒川 旭:「地震の日本史」、中公新書、2011

・鈴木堯士:「四国はどのようにしてできたか」、南の風社、1998

・佐野貴司:「超巨大火山」、講談社ブルーバックス、2015

・気象庁ホームページ

・国土地理院ホームページ

・高知新聞

・Wikipedia

 

(おわり)

2016年8月18日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

49 高知で地震を避難 2:宝永地震タイプで、東海より分遅れで発生する場合

2038年辺りと予測される南海地震.

南海地震は、まず東海地震が起き、その次に発生する可能性が高い.

東海地震から南海地震が発生するまでの時間差、これを避難に生かすことができないだろうか.

時間差は、過去の地震からすると、分遅れ、時間遅れ、年遅れ、この3パターンがあるように思われる.

パターンごとに避難を考える.

 

2017年3月15日 修正版

 

 

1.地震の発生

 

南海トラフ地震は、100年ごとに発生する.

前の昭和地震は、1944年から1946年にかけてだから、100年後というと、2044年辺りになる.

しかし昭和地震は、規模が小さく、トラフの端の方に破壊残りがある.

そのため発生が早まるとされる.

また、その1で述べた、地震での室戸の隆起量が1.2mに達する(あるいは沈降量が70cmになる)エネルギーが貯まる期間からも推定される.

これらのことから、2038年辺りとされる.

 

murotonoiwa

(海底から上がった室戸岬の岩)

 

⒉ 東海地震

 

東海地震が、南海地震に先立って発生する理由を推理する.

伊豆半島は、もともとフィリピンプレートに乗って運ばれてきた島である.

それが本州に激突して、プレート共々、強引に大地を押している.

伊豆は、日本でもっとも地殻変動の激しい地域である.

地質帯を見ると、四国の山地から徳島、和歌山、伊勢、渥美半島までは一直線である.

ところが豊橋からは、伊豆を円の中心にして、諏訪、軽井沢、高崎と大きく湾曲している.

押し込まれた結果である.

南海トラフも、同じように、遠州灘から駿河湾にかけて湾曲している.

直線的な南海地震域より、曲がった東海地震域には、かなりの無理がかかっていると思われる.

 

kesennuma2009

(気仙沼、2009年.3本の路線が震災後、1本を残してバスになった)

 

3.地震情報

 

避難時間と関係するので、地震波を復習する.

波には、縦波(P波)と横波(S波)がある.

ゴムひもの一端に錘を付け、反対側を持って上下に動かすと、ひもが伸び縮みする.

これがP波で、大地の伸び縮みになるが、大地の中なので伝わりは早く、5-7km/秒である.

一方、ゴムひもの端を持って振ると、波ができる.

これがS波で、辺りを揺らすので速度は遅く、3-4km/秒である.

しかし揺れは大きい.

P、Sの速度の差を利用し、早く来るPを捉え、次に来るSに対する警報を出す.

これが緊急地震速報である.

距離によって時間差は違うから、100kmなら50秒前、50kmなら25秒前くらい、直下なら0である.

ただ、波形収集に3秒、コンピュータの計算に数秒かかるので、10秒弱がロスとなる.

 

takatakouji

(陸前高田、2016年)

 

4.宝永地震のパターン:分遅れの場合

 

いま南海トラフで、もっとも危険な地域は、駿河湾周辺とされている.

昭和では壊れ残り、2038年では(それまでに破壊が起こるかもしれないが)安政以来、200年のエネルギーが蓄積される.

この東海地震は、高知にどのように影響するだろうか.

次の南海地震の震源を、仮に昭和と同じく、潮岬沖100kmとする.

もし東日本と同じように、東海で起きた断層の破壊が雪崩を打つようにして伸び、地震を発生しつつ、ついに280km離れた潮岬まで達すればどうなるか.

断層の破壊は、広い範囲では、竹を割るようには進行しない.

東日本では1km/秒程度のようである.

そうすると、約4分半で南海域まで震源が広がってくる.

駿河湾は遠いが、もし東海地震が潮岬に近いところで発生すればどうか.

東海、南海の震源が100kmしか離れていないとする.

南海地震は1分半後に始まる.

上の南海仮想震源から室戸には150km、P波が到達するまで25秒で、そこで警報が発令される.

しかし、S波の大きい揺れは、たった45秒後である.

どちらにしても、南海地震の警報を待つことなく、東海地震発生の情報を受け、直ちに避難行動をとることが、断然有利である.

 

5.分単位の差

 

bosaimusen

(防災無線)

 

緊急地震速報は、全国をブロックに分けているので、静岡の速報が即座に高知に伝えられるだろうか.

また日頃、のんびりと役場のお知らせを流している「防災無線」が直ちに反応してくれるだろうか.

一方で、パソコン、スマホのサイトやアプリで、指定地域の地震速報が得られるようになっている.

地域は3カ所指定できるので、高知と共に、御前崎、潮岬を登録し、個人的防災情報網?を敷いている.

 

 

次に、1分半から4分半の有利を生かしてどう逃げるかである.

これは場所で異なる.

高知市域は地震と共に1m沈下する.

山間部では山崩れの危険がある.

住んでいる地区でも、斜面や擁壁の様子、近隣の耐震性など、各戸で違う.

分単位の時間があるとするなら、自宅ではスマホと防寒着(冬だから)を持ち、家を飛び出し、庭の西の隅に逃げるのがよさそうだ.

市のマップによれば、津波到達時間は20-30 分となっている .

津波の心配より、まず揺れから逃げる方が先である.

それにしても、地震後の写真を見ると、傾いた電柱や垂れ下がった電線が避難を妨げている.

浸水予想地域と避難路は、電線の地中化を行う必要があるのではないだろうか.

 

tsunamiarea

(国道の表示)

 

リンク:高知で地震を避難 1

    高知で地震を避難 3 

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(おわり)

2016年8月11日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

48 高知で地震を避難 1 .南海トラフ地震は100年周期で、まず東海で発生する?

高知では、南海トラフで発生する地震、それに伴う津波の発生が確実である.

しかし、南海トラフ地震が予測される他地域、たとえば静岡、愛知、三重、和歌山と比べて、特段に危険が高いというわけではない.

一方、この地震は、100年ごとに、規則的に繰り返される.

突発的に、思いもかけなかった地震が発生するのではない.

予想ができる.

もっとも古い記録は、日本書紀に記された、684年の白鳳地震である.

それ以来、9回の地震が記録されている.

南海トラフ地震は、想定外の行動をしない.

必ず過去と似る.

 

namazu006

 

これらの地震は、三つのパターンに分類されるように思われる.

2038年辺りと推定されている次回の地震も、どれかのパターンになるのではないか.

パターンごとに、いま住む状況を踏まえ、それぞれに避難を考えるのがよいのではないか.

 

2017年3月16日 修正版

 

DSCF7113

(室戸岬)

 

1.内容

 

記す内容は、末尾に示す文献を基にした、自分の考えである.

天気予報があっても、傘を持って行くかどうかは、個人の考えである.

それと同じで、地震にどう対応するかは、個人の状況と、個人の判断による.

3.11で、それははっきりしている.

情報は出るが、逃げ方をだれが教えてくれるわけでもない.

 

(写真はイメージで、特定の地域の危険を示すものではありません)

 

⒉ 南海トラフ地震

 

murotomisakihoumen

(室戸方面・羽根岬)

 

駿河湾から日向灘まで、沖合100km、深さ3kmの辺りが南海トラフである.

南から来た海底にあるフィリピンプレートが、刻々移動して日本の下に潜り込んでいる.

日本のプレートはそれに引き込まれて沈む.

潜る、引き込まれる、その境界が細長く連なる溝状になっていて、「トラフ」と呼ばれる.

室戸岬では、年間7mm沈み、海底の土地は5cm移動している.

この引き込みに耐えられなくなって、100年ごとに瞬間的に大地が跳ね上がる現象が南海トラフ地震である.

ばねの元になる震源は、境界のトラフではなく、より陸側に近いところである.

100年で70cm沈むことになるが、長年押されてきたので、飛び跳ねる量は、過去の地震では1.2mである.

その差が積み上がって、室戸方面の海岸段丘がつくられている.

 

3.南海トラフ地震

 

isinomaki2009

(2009年、3.11前の石巻駅.津波ですっかり流された)

 

南海トラフ地震の特徴である.

 

1)潮岬を境に、東の東海地震と、西の南海地震に分かれる

紀伊半島、潮岬はトラフに向かって突き出ている.

そのため、プレートが潜り難く、壁となって東西に分かれて起きる.

2)東海地震と南海地震は連動する

しかし、同じトラフだから、両地震は連動して発生する.

3)100年ごとに起きる

白鳳地震:684年11月

仁和地震:887年8月

永長、康和地震:東海で1096年12月、南海は2年半後の1099年2月

明応地震:東海で1498年9月、南海は不明

慶長地震:1605年2月、ただし揺れは局地的で、津波だけが大きかった

宝永地震:1707年10月に東西で同時に発生、有史以来最大でマグニチュード8.6

室戸岬の隆起は、後の地震では1.2mだが、2mと特段に大きい.

慶長では歪が解消されず、明応以来200年積み上がったためではないだろうか.

安政地震:東海で1854年12月、南海はその32時間後

昭和地震:東海で1944年12月、南海はその2年後の1946年12月

明応以前の間隔が長いが、古い時代で記録がないためで、発掘調査ではその間での地震の存在が認められている.

4)冬に起きる

9月から3月にかけて発生する(仁和は8月22日).

8月から10月にかけ、太平洋岸の潮位は高い.

その重みがトラフを押し付けるので地震が抑制される.

しかし、潮位が戻り始めると重みが減るので発生する.

 

 

 

5)まず東海で発生し、その後南海で起きる

歴史に残っている地震はみなそうである.

唯一、宝永地震だけが「同時発生」である.

このときの震源は潮岬の東西であるが、示し合わせたように東西同時に起こることは考えられない.

どちらかで破壊が始まり、それが波及したと思われる.

二つの震源間の距離を100km、破壊が伝わる速度を1km/秒とすれば、2分弱で波及する.

宝永地震は、10月28日未ノ刻に起きている.

未ノ刻とは13時から15時の間を言い、2時間の幅があるし、正確な時計のなかった当時、分秒まではわからない.

他と同じく、東海で発生し、影響されて短時間後に南海が発生したと考える方が自然である.

この東海、南海の時間差は、高知での避難に大きく影響する.

なぜ東海が先なのか、避難と関係するので、その2で推理を述べる.

 

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(遠州灘.1988年)

 

6) 南海地震の前後に、西日本、特に近畿で地震が起きる

フィリピンプレートは、日本の大地を西北方向に押し、移動させている.

時間が進むにつれ、陸地には歪がたまる.

地震が発生しやすくなる.

南海トラフ地震の発生により、今度は歪の分布が変わる.

それがまた地震の原因になる.

ただし、近畿一円を動かすという地震ではない.

2016年の熊本と同じく、局地的な地震である.

過去には、伏見地震、伊賀上野地震、福井地震、鳥取地震などがある.

近くなので、高知からの避難場所に関係する.

 

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(伊賀上野、安政地震の半年前に地震があった)

 

その2では、東海地震と南海地震の関係を述べ、これらの特徴を踏まえて、パターンごとに南海地震からの避難を考える.

 

リンク:高知で地震を避難 2

    高知で地震を避難 3

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(おわり)

2016年7月31日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一