63  高知の森を魚梁瀬、野根山に探る.「世界遺産級」の驚愕の植林

高知は海のイメージが強いが、その84%が森林である.

全国平均は56%である.

さらにその山の67%がスギ、ヒノキの人工林である.

全国平均は40%である.

いずれも日本一と言ってよい.

昔は総延長740kmもの森林鉄道が敷かれていた.

高知の東部、魚梁瀬より奥へ、10kmあまり遡ると千本山に到達する.

今は保護林で、樹齢270から370年の杉の林である.

ここを始めに、高知の山を訪ねてみよう.

そこには驚きの植林で埋め尽くされた山がある.

 

 

2017年2月22日 最終版

 

1.千本山

 

(渓谷の道)

山の道は、冬とあって、登山客は見られず、渓谷で野鳥の写真を撮る一人だけに会った.

登山口では、高さ50m以上の大杉が2本出迎える.

登山道には木道と階段がつくられ、歩き易い.

 

(登山口)

 

植林する場合、苗は何でもよいというものではない.

真っ直ぐ育つとか、枝の出し方がよいなど、優秀なDNAを持つ木の種子が選ばれる.

そのために選定された樹木がマークされている.

スイカもそうで、近所の「スイカ屋」ハウスで訊くと、とにかく優秀な苗を入手することが重要だそうだ.

我家は生ごみを庭に埋めているが、昨年スイカが芽を出した.

スイカ屋さんの見よう見まねで、柱を立て、空中で吊るして育つようにした.

小型スイカが一つ実った.

美味しかったのは、スイカ屋さんで入手したものの種であったせいだろう.

 

(春、千本山から魚梁瀬を望む)

 

魚梁瀬杉は、土佐藩の有力な財源として、厳重に管理され、育成されていた.

高知の宝の山に目をつけ、混乱の時期に皆伐の計画が立てられた.

第一は山内容堂で、近代化施設の開成館の財源を目論んだ.

第二は板垣退助の立志社で、活動資金として払い下げを受けた.

どちらも失敗に終わり、現在の姿が残っている.

 

2.須川林道

 

谷沿いの道は見通しが効かない.

山を見るには、尾根に上がらなくてはならない.

奈半利から野根に至る、昔の野根山街道に沿う須川林道を上った.

 

(須川林道から魚梁瀬方面.すべての木は手で植えられた)

 

魚梁瀬方面までよく見えるが、見渡す限りの山腹は、すべてスギかヒノキの人工林である.

1950から1970年代にかけて植えられた.

機械などない時代、全部人手で整地をして、苗木を担ぎ上げ、一本づつ植えた努力が、山をくまなく埋め尽くしている.

谷底から山頂まで、想像を絶する労働の集積である.

万里の長城は1本の線である.

これは、視界すべての面である.

強制された労働ではない.

日々、無名の人たちが、営々と勤労に勤しんだ結果である.

長城以上の人類の成果ではないか.

日本が誇る「世界遺産」である.

 

 

(伊尾木川流域.一本一本の植林の結果である)

 

以前、植林のイベントに参加した.

 

(植林の体験)

 

登るだけでも苦労する斜面を、苗木を担いで上がる.

土地は、すでに地元の方々によって灌木、雑草が取り除かれ、整地されている.

小さな穴を掘って植える真似事だが、10本、20本がせいぜいである.

その後は、下草刈りも行わなくてはならない.

 

(羽根川流域、これから苗木を植える)

 

高知県民というと、酒を呑んでおだを上げるイメージを持たれる.

しかし、やればこれである.

もっとも、一旦始めるとブレーキがかからず、徹底的にやるということかもしれないが.

 

 

(カモシカ)

 

カモシカに出会った.

シカは立ち止まってもすぐ逃げるが、カモシカは好奇心が強いのか、フリーズするのか、動かない.

こちらが動くと目だけ追っている.

何かしてやりたくなるが、カナダの公園の掲示にあったように、

“Fed animal is dead animal”

である.

冬の暖かい日が続いていたが、900mまで上ると、日陰の路面には雪が残り、アイスバーンになっている.

最高地点は1,000mで、北斜面になる.

引き返すことにした.

 

3.日本の植林地

 

スギ、ヒノキの人工林は、日本全国至る所に見られる.

大規模に集積する地域はどこか.

それには森林鉄道を見ればよい.

森林鉄道が大規模ということは、大量の伐採が可能な大森林ということである.

伐採をすれば、必ず植林を行う.

植林を含んだ年間の森林の生育量が、年間の伐採量を上回れば、生産は永遠に持続される.

森林鉄道の規模と伐採、植林は比例する.

 

(青森、津軽森林鉄道線路跡)

 

大規模の森林鉄道集積地である.

1)津軽半島:最初に森林鉄道が設けられ、総延長でもっとも長い

2)秋田の二ツ井:秋田スギの中心で、奥深い

3)木曽の王滝:本格的な鉄道に近い

4)魚梁瀬を中心とする高知県東部

 

(伊尾木川上流)

 

高知東部の特徴は、山がV字の谷から成る急傾斜になっていることである.

そのため、インクライン(仮設のケーブルカー)が至る所につくられ、搬出していた.

急傾斜地での苦労は、他の3か所を格段に上回る.

高知県東部は、日本最大の植林の記念碑である.

 

関連記事リンク:いまの森林、なぜこの姿に?

                                  伊尾木川を46km遡る

高知学トップページに戻る

 

(おわり)

 

2017年2月15日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

62 「日本で最も美しい村」馬路.そこには魚梁瀬森林鉄道とトリュフ?

「日本で最も美しい村連合」という組織がある.

高知では、魚梁瀬森林鉄道のある馬路村と、棚田の本山町が加入している.

四国では、徳島の上勝町、愛媛の上島町が加わる.

小さい地域でも、誇りを持って美しい景観をつくり、維持することが目的である.

2005年に発足し、現在64の地域が認定されている.

その1/3には、行ったり通ったりしているが、なるほどと頷ける.

フランスにある組織に倣ったもので、ベルギー、カナダ、イタリアにも同様の連合がある.

知人のI氏は、分厚いガイドブックを基に、フランスの「美しい村」を訪れ、その絵で毎年個展が開かれる.

馬路村を訪ねてみよう.

 

(北海道の「美しい村」、鶴居に保存の村営軌道車両)

 

2017年4月23日 修正版

 

1.森林鉄道

 

現在の馬路村は、馬路と魚梁瀬が合併して生まれた.

馬路は安田川沿い、魚梁瀬は奈半利川沿いである.

魚梁瀬は1,000から1,400mの多数の山に囲まれ、その間には無数の峡谷が刻まれている.

降雨が多く、気温も高いから、樹木の生育が盛んである.

江戸時代から、魚梁瀬杉の管理は藩によって厳重に行われていた.

明治になって国有林となり、両地区に営林署が置かれ、伐採が進められた.

1910(明治43)年から森林鉄道が設置される.

最盛期には総延長250kmの路線が、多数の谷を遡って運転されていた.

高知県内には700kmの森林鉄道があったが、魚梁瀬は格段に大きい.

日本では、宮内庁の木曽森林鉄道に匹敵する.

遺構は、産業遺産、重要文化財に指定されている.

その一つ、県道の一部に転用されていた鉄橋に、ゆがみが発生した.

迂回路がつくられたが、そのため真横から見ることができる.

 

(元森林鉄道の橋梁)

 

魚梁瀬には1周400mの線路がつくられ、日曜に保存された機関車が運転される.

2周1,000円で体験運転ができる.

簡単な運転だが、汽笛を鳴らしたり、なかなか楽しい.

 

(平日の「森林鉄道」)

 

2. 馬路村のパン、トリュフ

 

いま、馬路の中心産業はユズ調味料、飲料である.

(馬路村のユズ食品工場)

 

木を基調にした、清潔で立派な工場で、いつでも見学ができる.

横にパン工房がある.

ライ麦などの堅いパンが得意だそうで、高知にはなかなかないので、沢山買い込んだ.

 

(パン屋で)

 

昼時で、コーヒーと温かいスープ、サンドイッチをオーダーした.

土曜日とあって、地元の人たちが次々来る.

男の子は、馬路村のイメージキャラクターに最適の風ぼうである.

小遣いをもらったのか、慣れた様子でチキンサンドを頼み、出来上がると目を見開いてかぶりついた.

 

(馬路のトリュフ犬)

 

マスターの子犬が、このほど雑木林でトリュフを見つけた.

何に魅力の香を感じたのであろうか.

トリュフは日本にもあり、栽培も可能性があるという.

いずれメニューに入るかもしれない.

 

3. 魚梁瀬ダム

 

(魚梁瀬ダム)

 

1965(昭和40)年に電源開発の魚梁瀬ダムが完成した.

これを契機に森林鉄道が廃止された.

コンクリートではなく、真ん中に粘土層を置き、周囲に岩石を積み上げるロックフィルダムである.

魚梁瀬ダム単体の発電所は3.7万kwだが、下流の3か所に小さなダムと発電所があり、共通に運用される.

水系全部では14.5万kwで、当時四国で最大のエネルギー供給地帯とされた.

一発電所で100万kwの現在からすると、大工事をしてそれだけ?という気がしないでもない.

上流では絶えず山が崩れている.

満々と水を湛える、というより、満々と土砂を湛える、というところもある.

 

4.魚梁瀬ニュータウン

 

(夕暮れの魚梁瀬)

 

ダム建設に伴い集落が水没するため、台地に新しく「ニュータウン」がつくられた.

地域全体で1,000人もの人が林業に従事していたが、いまここに住むのは180人である.

 

(魚梁瀬の中心)

 

なかなかの「コンパクトシティ」である.

役場、マーケット、郵便局、診療所、学校、温泉が集まり、平地で高齢者が往来しやすい.

ヘリポートも近くにある.

電柱、電線の地中化という計画もあったが、時期尚早で実現しなかった.

馬路の中心まで30分、海岸まで1時間だが、「美しい村」の中では格段に遠いわけではない.

馬路村では廃校になった学校がない.

ほとんどが営林署の職員で、山奥の事業所の家庭では、子どもたちは魚梁瀬の学校の合宿所に居たからである.

土曜の午後、森林鉄道に連結されたトロッコで家に帰り、月曜の朝戻る.

 

 

100人以上居た.

ただ、小さい子はすぐには馴染めなかったようで、1年生が一人姿が見えなくなった.

手分けをして探したところ、線路を辿って自分の家に帰っていたという.

 

(魚梁瀬の学校)

 

今の学校は、子どもたちのアイデアで、2階から滑り台で運動場に下りることができる.

 

関連記事リンク:魚梁瀬森林鉄道.レールの発掘

        森林鉄道から森林を探る

高知学トップページに戻る

 

(おわり)

2017年2月5日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

61  ごめん・なはり線で高知の呑み鉄.高知一高い酒、日本一海に近い駅

鉄道ファンが増えるとともに、いろんなジャンルができている.

その中に「呑み鉄」という分野があるらしい.

鉄道に乗って、呑みながら旅をする.

降りて、付近の居酒屋や酒蔵を訪問しては呑む.

高知ではどこがあるだろうか.

土佐くろしお鉄道、ごめんなはり線である.

JR土讃線を後免で分かれ、終点奈半利まで42.7km、第三セクターの鉄道である.

真っ直ぐ行けば1時間だが、途中下車を繰り返して乗ってみよう.

 

2017年1月29日 最終版

 

1.吉川

 

(吉川)

 

後免を発車した1両の列車は、野市を出ると田園になり、吉川に着く.

最初の酒蔵、どぶろく工房香南がある.

右に畦道を歩けば約1kmである.

 

(どぶろく工房香南)

 

元はコンクリート工場で、鶏や山羊が遊んでいる.

だれも酒蔵とは思わないであろう.

ところが、ここで作るどぶろくは、3年連続、全国の優秀賞を受けている.

米、水、酵母など、徹底してこだわった結果である.

ごめん・なはり線では、このどぶろくを呑む列車が運行される.

500mL、2,500 円のものを買う.

しかし、あるじの探求心は留まることがないようで、今度750mLで4,500円のどぶろくを売り出した.

高級レストランのワインリストに載る価格帯である.

定評の「土佐鶴天平」を上回り、高知でもっとも高価な酒が現れた.

 

2.赤岡

 

(赤岡)

 

赤岡から海岸に出る.

高木酒造「豊の梅」は近い.

しらす(ちりめん)の直売所がある.

これを肴に岸壁で呑む.

高知で観光客に、「しらす丼」はどこで食べられるかと訊かれる.

あまりにも日常的なので答えに窮する.

スーパーやコンビニでご飯を買って温めてもらう.

そこにシラスをぶっかけて食べる.

なくなれば継ぎ足す.

100や200gはあっという間になくなる.

好みで醤油などもらっておいて、かけてもよい.

 

3.夜須

 

(夜須の海岸)

 

夜須には海水浴場があり、砂浜にはボードウォークがある.

ここは絶対ビールだろう.

インド料理店があり、テラスで生ビールとナンを摂ることもできる.

 

4.西分

 

(西分駅に入る)

 

夜須からトンネルを出ると、琴が浜に沿って7km走る.

ハイライトである.

西分のホームは海に面している.

聞こえるのは、波の音と松を渡る風の音だけである.

海に近い駅は北海道や東北にもあるが、寂しくて、海を楽しむ気になり難い.

四国にも他にあるが、傍を国道が通ってうるさい.

ごめん・なはり線でも、隣の和食(わじき)は列車交換の駅で、ホームが二本あり、さほど景色はよくない.

その先の赤野ではホームが山を向いている.

JR始め、ほとんどの全国の鉄道を乗ってきたが、西分が間違いなく、日本でもっとも海に近い駅と断言できる.

 

(西分のホーム)

 

ここで呑むのは何がよいだろうか.

ビールや酒でもよいが、ほとんど乗降客はないとはいえ、無人駅を独占しての酒盛りはよくない.

それなら下の砂浜に出ればよい.

ここはひとつシェリーはどうか.

高速で通過する快速列車など眺めながら舐める.

 

(松林を走る)

 

5.煙突

 

田舎で車窓から煙突が見えると、そこは造り酒屋である.

米を蒸すときに使うもので、酒蔵のシンボルである.

今では薪を使わないから、使われてはいないが.

 

(響灘)

 

西分駅を下ると、響灘の煙突が見える.

白い煉瓦で名を入れた、低いが凝った作りである.

いまは醸造をやっていないが、コンビニ的酒屋をやっているので、呑み鉄の酒を仕入れることができる.

 

(志ら菊)

 

一つ先、和食(わじき)駅からは北に仙頭酒造、「志ら菊」の煙突が見える.

 

(玉川)

 

さらに次の赤野からは、旧道にある有光酒造「玉川、安芸虎」の酒蔵が近い.

安芸に着けば、これも旧道に、菊水酒造「菊水」がある.

さらに安田まで行けば、一帯は酒の宝庫である.

町中には、南酒造「玉ノ井」の古いたたずまいが見られる.

冷用酒「南」が高知でよく呑まれている.

海岸には、高知一で全国銘柄「土佐鶴」の本拠がある.

ただし、主力工場は台地の上にあるので、「司牡丹」の佐川と違って、街中にはあまり酒の香がしない.

もう一駅、田野では、濱の鶴酒造「美丈夫」が、がんばっている.

 

(美丈夫)

 

6.奈半利

 

次駅、奈半利が終点である.

ホームは高架の3階で、1本の線路がぷっつりと終っている.

それぞれの蔵で買い求めた酒が重い.

 

 

 

同じ階にイタリアンがあるので、休んでゆこう.

パスタでワインをやり、鉄橋を渡って次の列車がやってくるのを待つ.

 

(奈半利駅で)

 

高知のI石灰会社では、このほどワインの醸造を始めた.

良質の石灰質の土地、シャブリに匹敵する完成を願いつつ、高知の飲み鉄の旅を終える.

 

関連記事リンク:高知のどぶろくと酒蔵

        特急グリーン車乗り放題で四国東部を回る

高知学トップページに戻る

 

(おわり)

 

2017年1月18日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

60 高知で魚グルメ.カツオ、ヨコワ、イシモチ、クエ、イワシ

およそ高知で食品を売るならば、カツオを扱わない店は、地域の存在として認められない.

刺身にせよ、たたきにせよ、短冊にせよ、切身にせよ、県民の主食に近い.

では、どのように高知県民は食べているのだろうか.

また、カツオ以外にはあるのだろうか.

獲る、買う、食べる、に対する県民の関わりはどうか.

高知の魚グルメを探ってみよう.

 

 

 

2017年1月14日 最終版

 

1.我家のメニュー

 

個人的ながら、我家から始める.

カツオのたたきであるが、ブロックを買って、食べる直前に焼く.

 

tatakiwoyaku

(カツオを焼く)

 

年末、いつもの魚屋に、予めカツオを頼んだら、入るか入らないかわからない、と言われた.

遠洋の冷凍でなく、近海ものだからそうなる.

わからないから予約というわけにもいかない.

しかし、そこはさすがに高知で、見事なブロックが手に入った.

個人の家では、藁焼きは難しいので、ガスの火で炙る.

電磁調理器では焼けないから、このためにガスにしている.

脂が滲み出て滴り、パチパチと線香花火のように弾ぜる.

 

kinmenohimono

(キンメダイの干物)

 

来客メニューの一つはキンメダイの干物である.

魚屋で真っ向唐竹割りに捌いてもらい、塩水につけた後、網の箱に入れて天日で干す.

見た目もきれいだが、ほっこりとした味で、酒もごはんも進む.

先日は家の中のコンロで焼いたので、翌日も部屋に炉端の香がした.

 

urumeiwasi

(ウルメイワシ)

 

近所の方から、「たくさん釣れたので」とイワシのお裾分けを頂戴した.

ムチムチ、ピカピカとしている.

スーパーでも売っていて、十分に新しい.

しかし、一本釣り(1本の糸に針を複数つけるサビキだが)の直送にはかなわない.

早速鮨にした.

 

2. ニベ

 

(西分漁港)

 

近くの漁港に行ってみた.

仲買と魚屋のご夫婦、地元スーパー主人の顔が見える.

これが今日並ぶのだろう.

見慣れない大きい魚が揚がっているので、訊くと「ニベ」との答えだった.

別名はイシモチで、耳石が大きいところから、そういうらしい.

また、「頼みをにべもなく断る」は、これに由来する.

ニベからつくる膠は強力だが、でないと縁が薄いということによるそうだ.

 

3.ヨコワ

 

(ヨコワ)

 

12月、地元スーパーの棚にはヨコワのブロックがずらりと並んだ.

高知では「ヨコ」と呼ぶ.

マグロは粘っこい、しかしハマチはあっさりし過ぎる.

その中間の舌触りで、どの魚よりも刺身が好きである.

漁師によれば、何年も獲れなかったが、今年は異常に獲れているという.

ただ、これはクロマグロの子供であり、漁はあまり好ましくないとされてはいるが.

 

4.クエ

 

(安芸の鮮魚店)

 

年末、安芸の鮮魚店に行ったら、クエが出ていた.

 

(クエとキンメダイ)

 

キンメダイも深海魚で高いが、クエは9,600円と破格の値段である.

正月、大人数で鍋や刺身などやるのだろう.

1月に行ったら、鍋用に切身を売っていた.

大きい魚だが、でれっとした身ではなく、ちりちりと締まった筋肉質である.

うまそうだが、やはり一盛り1,500円と高価である.

 

5.ボラ

 

(手結 黄堤防)

 

近くの手結港、黄色の灯台がある堤防は、穏やかな入江に面している.

釣果が多く、ファミリー恰好の釣場となっている.

鳥もファミリーの一員である.

一家で竿とお弁当を持ち、出かける.

近所の小学生S君は釣りが好きで、下の漁港に自転車で行く.

お母さんからは、二人で行くこと、ライフジャケットを必ずつけること、厳命されているらしい.

「小鮒釣りし」ではなく、「小鯵釣りし あの海」である.

 

(琴が浜)

 

夕方の海岸では、車を降りて釣竿を出す仕事帰りの人をよく見る.

浜に竿を立て、じっくり取り組むのもいるが、この人は手軽なイカ狙いらしい.

この少し沖では、この2,3日、ボラがよく跳ねている.

写真に撮ろうとするが、なかなか難しい.

望遠なので視野が狭く、どこで跳ねるか予測がつかない.

何回かやっている内に要領がわかってきた.

群れで一定の移動をしているようだ.

そのあたりに波が立つ.

そこを狙ってシャッターを押す.

能登の七尾湾のボラ待ち櫓は、その下の網の上に群れが来たところで引き揚げ、一網打尽にするのだそうだ.

 

(跳躍!)

 

なぜ跳ねるかは、わかっていないという.

群れで周囲が狭苦しくなって、脱出するのかもしれない.

勢いよく、かなりの距離を飛んでいる.

学校の水泳で飛び込みに失敗して、腹を打つのと同じで、岸までバシッという着水の音が聞こえてくる.

痛くないのだろうか.

ボラの味は水質によるそうだ.

下の堤防を根城にする釣師は、この辺りは水が良いので美味い、と言っていた.

ウチのお母さんは、ボラを捌きたくない.

つぶらな瞳で、鼻先が丸く、口も控えめである.

どことなく人の顔に似ている.

 

 

リンク:魚を獲る、買う、食べる

高知学トップページに戻る

 

(おわり)

 

2017年1月8日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

59 JR四国のバースデイ切符で四国西部を回る

JR四国の「バースデイ切符」.

誕生月の3日間、特急グリーン車乗り放題で10,280円、同伴者も同じ金額のお得な切符である.

12月が誕生月で、毎年利用する.

いつも、乗り回す体力勝負になっているので、ウチのお母さんは遠慮する.

土讃線土佐山田を朝出て西に宿毛へ.

宿毛から宇和島へバスに乗るが、これは切符の範囲外で別途支払い.

宇和島から松山、丸亀を経由し、夜に土佐山田へ戻る.

 

2017年1月1日 最終版

 

 

  1. 土讃線

 

%e5%b1%b1%e7%94%b0%e3%81%ae%e6%9c%9d

(土佐山田)

 

非電化の駅には架線が無く、凛とした空が広い.

高知城が朝日を受けている.

しかし、北の山並には、厚い雪雲がかかる.

西に、土佐久礼は海岸である.

運転席のディスプレイには、「津波浸水区間」などと表示されている.

ここから12km登る.

 

sakawoagaru

(久礼坂を登る)

 

登ったところは四万十川流域である.

窪川からは、土佐くろしお鉄道線となる.

長髪の運転士と、女性車掌に代わる.

その先の川奥信号場で予土線と分岐し、ループ線となって1周して下り、この駅の真下に出てくる.

トンネル内の一定の曲率なので、ループを通っている実感はないが、運転席の前を見ているとかなりの急曲線である.

 

zuidouwoderu

(トンネルを出る)

 

出ると海岸になる.

四万十川は、このループで降りてきた標高差によって、河口まで流れているわけである.

 

kaiganwomiorosu

(沿線の海岸)

 

2.宿毛線

 

中村1037着   宿毛行普通列車1041発

 

特急は中村迄で、宿毛には乗り換える.

以前は、ほとんどの特急が宿毛迄運行されていたが、今は乗客減と経費節減で、上下併せて3本だけである.

しかし普通車両の窓は大きく、インテリアも明るい.

 

sukumosensyanaikaitei_edited-1

(普通列車宿毛行)

 

simantowowataru

(四万十川)

 

四万十川の長い橋梁を渡る.

 

3.宇和島へ

 

1037  宿毛着  1042 宇和島行バス発

 

「ミッシングリンク」という言葉がある.

もともとは、猿人と人類の間を繋ぐ化石が見つからないことを意味している.

しかし昨今では、もっぱら環状となるべき高速道路の未開通区間として使われる.

四国の鉄道ならば、東の甲浦から室戸を回って奈半利まで、西の宿毛から宇和島までが「ミッシング」である.

高速道路も似たような区間が「ミッシング」である.

高速道路のミッシングリンクは大いに叫ばれるが、鉄道のミッシングリンク解消の「悲願」は聞かれない.

 

sukumoeki

(宿毛駅前)

 

車内に、時折澄んだ鈴の音が聞こえる.

老婦人のお遍路さんのものである.

どのような発心かはわからないが、バス、鉄道を乗り継ぐのも回数が多い訳ではないし、なかなか大変である.

40番、観自在寺のお参りである.

自分の車でこの辺りは通っているが、町は大体バイパスである.

バスは律儀に旧道の町々を通るので、印象は大分異なる.

城辺など、バスターミナル、ビジネスホテルや長い商店街があって、意外に大きい町である.

ただ多くはシャッターを閉ざしているが.

近くの山は白い.

豊後水道から吹きつける西風が冷たいのだろう.

宇和島に近づくころ雨が降り出してきた.

1,800円を支払って降りる.

 

uwajimaeki

(宇和島駅)

 

4.松山へ

 

宇和島1228着 予讃線特急宇和海18号 1358発

 

uwajimaekikounai

(宇和島駅ホーム)

 

宇和島城へとも思っていたが、慌ててコンビニ傘を買うような降りである.

地元の料理は何回か食べているので、横丁の落ち着いたラーメン屋に入った.

松山との間の特急宇和海は、松山でも宇和島でも、すぐに折り返す効率的な運用である.

そのため、基地に戻らず、ホームに停車中に給油ができるようになっている.

 

mikanbatake

(法華津峠へ)

 

法華津峠に向けて登る.

一帯はみかん畑である.

大体は取りいれされているが、ところどころ電燈がついたように橙色の実が残る.

 

amenohatake

(雨上がり)

 

やがて雨は止み、雲だけが残る.

 

matuyamaekitokkyuu

(松山)

 

松山は高架化準備中で、車両基地、貨物ターミナルの移転工事が進められている.

乗換に便利なように、岡山行、宇和島行特急が、同じホームに付き合わせて停車する姿がなくなる日は遠くない.

 

5.予讃線

 

松山1628発 しおかぜ26号 丸亀1830 着

 

松山の改札で切符を見せると、駅員に「おめでとうございます」と言われた.

繁華街の大街道まで路面電車に乗る.

「坊っちゃん列車」に出会う.

乗務員は、吹きさらしだし、終点での人力による方向転換などハードな仕事である.

しかし、誇りを持ってやっている様子は、観光客にうれしい.

 

yuugatasetouti

(瀬戸の夕暮れ)

 

瀬戸内の島に冬の夕暮れの雲が広がる.

丸亀で土讃線に乗り換える.

 

marugametokkyuu

(電車特急しおかぜ)

 

駅前の猪熊玄一郎美術館のエントランスに明かりが点る.

 

marugameekimae

(丸亀駅前)

 

6.土讃線で帰る

 

丸亀1846発 南風21号  土佐山田2037着

 

土讃線は阿波池田を過ぎると山の中である.

窓外は真っ暗で、時折ぽつりと灯が見える.

他に誰もいない車室の中に、エンジンの音が絶え間なく高く低く響き、闇の中を右に左に曲がる.

この旅が行方知らずで、いつまでも続くような気持になる.

疲れたのかもしれない.

 

yamadanotuki

(土佐山田)

 

夜の駅は無人である.

切符を集めて回る車掌の向こうに月が見える.

 

関連記事リンク:特急グリーン車乗り放題で四国東部を回る

        鍋焼きラーメンの須崎が日本を支える

高知学トップページに戻る

 

(おわり)

 

 

2016年12月25日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

58 高知でジビエ料理.ハクビシン、シカ、イノシシ.肉の販売店は?

毎年、高知県民の投票によって、高知でお勧めの料理店を選出する、「高知家グルメガイド」の催しがある.

結果はパンフレットになって、観光案内所などで配布される.

これまで、鰹たたきの店が、1位を続けて獲得していた.

ところが2016年では、高知市内のジビエレストラン、Nが県内1 位となった.

周辺での「選挙運動」があったのかもしれないが、高知イコール鰹たたき、の固定観念を破る「快挙」である.

女店主、Nさんは高知のジビエ料理の開拓者である.

シカといえば、シカドッグにシカソーセージ、イノシシといえば猪鍋、といった、よくあるレシピではない.

ロースト、グリル、アヒージョなど、ワインが合う洗練された料理である.

身辺では、ジビエ料理にハクビシンが加わった.

 

 

 

2016年12月21日 最終版

 

1.ハクビシン

 

hakubisinwokinnjyodeedited-1

(近所の茂みで)

 

ハクビシンは、タヌキ位の大きさの小動物である.

日本固有の種ではないが、いつ渡来したのかは不明なので、特定外来動物ではない.

果実が好きで、ミカン畑を荒らす.

カキやイチジクなど、熟してきて、明日辺りが食べごろかと思っていると、次の日はもうハクビシンにやられている、という話をよく聞く.

味覚の鋭い、なかなかのグルメなのである.

自宅近くの林にもいるらしく、前の側溝を走っていた.

 

jibieparty

(ハクビシンパーティ)

 

町内の人が、落し罠で2匹を捕らえたというので、8人で自宅で焼肉パーティを行うことになった.

熟達の職人?が備長炭で焼く.

ベジタリアンで、グルメなハクビシンが不味かろうはずはない.

脂は少なく、ほろほろとした柔らかさで、コンビーフに似た食感である.

もちろん、けもの臭さなどない.

 

hakubisinsityuu

(ハクビシンのシチュー)

 

余った骨付き肉でシチューをつくった.

 

2.ジビエフェスタ

 

zibiehuesutakaijyou

(山の会場)

 

毎年秋、標高730m、大豊町の山の上にある「ゆとりすとパーク」でジビエフェスタが開かれる.

もともと前記Nさんが始めに企画した催しである.

ジビエに関するいろいろな出店がある.

 

sisimaruyaki

(イノシシの丸焼き)

 

丸焼きは、焼いてさばくのが追い付かず、長蛇の列である.

ローストやグリルなど、買い求めてすぐ山を下りる人が多いようで、時間が経っていないのにもう売り切れである.

ジビエの人気は大変高いようだ.

ただ山の上で、風は強いし、日が陰ると寒い.

屋外のテントやテーブルではゆっくりできない.

そう言ってはなんだが、出店もよくある焼きそばやカレーが多く、B級的雰囲気である.

以前は室内で、その場でシェフがジビエを調理したり、輸入生ビールやワインがあって、A級的に落ち着いて食事が楽しめたのだが.

地元工房の肉を使った、山の民宿Mのシカ肉ミンチのペンネを食べた.

丁寧に料理されていた.

 

3.北海道のジビエ

 

10月に北海道、釧路から根室にかけて旅行した.

根釧原野、湿原を6日間歩いた.

ホテル、民宿で5泊したが、その間の夕食は次の内容である.

カニ、イクラ、ウニ(いずれも地元回転寿司で)、柳カレイ、宗八カレイ、ホッケ、ニシン、サンマ.

魚には食傷して、エゾシカも多いことだし、釧路でジビエ料理を探したが、見つからなかった.

 

ezosikanature

(エゾシカ)

 

釧路・根室近辺は、特にエゾシカと車の衝突事故が多く、年間500件に上るという.

高知では、土讃線の同じ特急が、続けて2度シカをはねる事故があった.

レンタカーを借りるとき、このプランでは、シカとぶつかっても車両保険は出ないからと注意された.

危険個所を示す、エゾシカ衝突事故マップを渡された.

風連湖に行ったが、国道傍の草叢で2頭が草を食べていた.

ネイチャーセンターでは5頭に出会った.

所員の説明では、原生花園の草を荒らしていて、対策に追われているそうだ.

 

4.高知のジビエ

 

もし、高知で5泊6日の旅行をするとして、夕食はどうなるだろうか.

まず1日目、鰹たたきは確実である.

2,3日目も寿司、生簀、貝類など魚で行けそうである(ただし、高知には寿司屋、生簀、炉端が意外に少ない).

4,5日目はどうか.

イタリアン、中華などあるが、東京で食べられるものを、旅行に来て食べる気はしない.

そこでジビエである.

高知観光の楽しみを大いに広げてくれる.

 

5.ジビエの原材料

 

高知も、イノシシ、シカの農作、森林被害がひどく、年間ほぼ各2万頭が駆除されている.

しかし、それでもまだ自然減には至らない.

 

駆除された動物は、ほとんどその場に埋められる.

もったいない、食べては、という気もする.

しかし、我々が牛や豚をおいしく食べられるのは、一定の場所で、絶命後、瞬時に解体されるからである.

野生動物に対して、これを行うことは大変難しい.

銃砲にせよ、罠にせよ、止めをさした後、すぐに血管、気管を切断し、血を出す.

シカは、少なくとも1時間以内に処理する必要がある.

大変手間がかかるし、そのような狩りの場所は限られる.

ジビエは極めて貴重な食材なのである.

 

inosikakoubou

(猪鹿工房O)

 

今回、大豊町、岩原の山にある猪鹿工房Oで1.5kgを買った.

 

リンク:高知のジビエ.シカ、イノシシを食べる

高知で魚を獲る、買う、食べる

高知学トップページに戻る

 

(おわり)

 

2016年12月9日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

57 高知の山のドライブ:瓶ヶ森の霧氷、天狗高原の夜明け

四国を縦断して、背骨のように高い山が連なっている.

これらの山々が、各県の県境になっている.

そこには山岳道路もある.

東には、徳島県の標高1,954mの剣山がある.

そこから西に、1,500mクラスの山がずっと続く.

愛媛県の石鎚山は、西日本最高で1,982mである.

南に進むと、石灰岩のカルスト台地である、1,485mの天狗高原である.

石鎚山系の瓶ヶ森と天狗高原を訪ねてみよう.

 

2017年4月23日 最終版

 

 

1.  瓶ヶ森

 

(町道 瓶ヶ森線)

 

高い山の多くは、頂上かなり近くまで自動車道がある.

石鎚山には、北側からはロープウエイがあり、南側からは「スカイライン」で登ることができる.

ただし鎖を伝って登るなど、修行、登山の覚悟が必要で、観光気分では行けない.

愛媛県は、その瀬戸内沿岸がほとんど工場地帯になっているので、大変富裕である.

従って、県道の石鎚スカイラインは2車線で整備されている.

一方、瓶ヶ森は1,896mでやや低いが、車道から見通しの良い笹原を通って、頂上まで1時間もかからない.

小学生でも容易である.

こちらは、高知県の領域で、石鎚に繋がる尾根を通る林道で行く.

林道は「いの町道」なので狭い.

しかし、広いと自然破壊は進む.

ときどき大きく崩れ、町が維持するだけでも大変である.

 

kamegamorimuhyou

(沿道の山々)

 

北面から稜線にかけて、枝葉は桜が咲いたように白い.

似た高さの、屋久島、宮之浦岳は海から尖って聳えている.

海岸から頂上には直線距離で15kmほどである.

石鎚も海岸から山頂まで、同じような距離で近い.

石鎚山系は、あたかも屋久島が連なったような壁になって、海に面している.

北風は壁に当たり、急上昇し、急冷される.

そこで木々に霧氷を咲かせることになる.

 

muhyounoki

(霧氷)

 

瓶ヶ森まで登るつもりであったが、ガスの中である.

翌日にして、1,450mにある山荘に早々と向かった.

珈琲を飲みに立寄っているツーリングの若者たちはいるが、宿泊は我々だけである.

部屋を用意していただき、炬燵で昼寝やら持ってきた本を読むやら、夕方になった.

山荘は吉野川の源流域にあり、ブナ林から滲み出る水はまことに清冽である.

食後、薪の燃える前で、喉に染み入る水を肴に、白ワインを1本空けてしまった.

 

makinoakari

(山荘の火)

 

山荘の管理者の娘さんは小学生だが、通学では、麓に車で30分送ってスクールバスに乗せる.

バスは30分かかって学校に着く.

帰りも同じで、1時間以上はかかる.

町道は12月から積雪で通行止めになる.

山荘も11月末で閉ざし、一家5人は下に降りる.

 

isidutinoasa

(朝の石鎚山)

 

翌朝は晴れて、石鎚と海岸の町が見える.

管理者一家に見送られて、瓶ヶ森に向かう.

気温が高まり、霧氷が滴り落ちる.

 

 

kamegamorisantyou

(瓶ヶ森山頂)

 

2.天狗高原

 

四国の山は石灰岩質のところが多い.

天狗高原は、侵食され、広大な土地に石灰岩が点々と露出するカルストになっている.

昔は焼畑農業が行われたが、現在は一面ススキの原になっている.

 

tengunosusuki

(天狗高原)

 

tengunomiti

(夕暮れのカルスト台地)

 

 

登るにはいくつかのルートがある.

一般的には、197号から2車線の東津野城川林道を通る.

地図などでは、国道、県道を通るルートが示されるが、こちらは逆に狭くて、屈曲が多い.

林道は、1969年に計画がつくられた、土佐清水から伊野北部に至る、延長188kmの幹線林道計画の一部なのである.

本来の伐採、運搬の用というより、観光路線になっている.

これより北にある小田池川林道も、同じように大規模だが、どこにも繋がっていないので交通量はゼロに近い.

繋がれば観光路線になる要素はあるのだが.

今回は梼原から、龍馬脱藩の道、韮ヶ峠に上がった.

高原の道は、尾根を緩やかなうねりで続いている.

春から夏は牛が放牧されるが、今は牛舎に戻っている.

 

tengusou

(宿舎の朝)

 

高原にはT荘がある.

山の上に旅館があるイメージで、格別変わってはいないが、夜には星の観察会がある.

高知市内から車で2時間程度、町営バスもあり、日帰りが十分可能である.

泊り客も多い.

山上の道は冬季閉鎖されるが、ここは年中の営業である.

ただ下から登る車道には、厳冬に積雪、凍結がある.

 

tengunoyuki

(橇遊び)

 

高知で雪遊びができるところはほとんどない.

ここには元スキー場の斜面があり、子どもたちがレンタル橇で遊ぶ.

上は結構急斜面で、速度が出てひっくり返ったり、ぶつかったりしているが、高知ではすべて自己責任である.

高原で泊まるには晴天に限る.

雨なら雲の中である.

秋の朝、日の出前5時半には、ほとんどの泊り客が表に出てくる.

朝日が昇る.

 

tengunoasahi

(高原の朝日)

 

低い谷間は雲海である.

tennguunkai

(麓を見下ろす)

 

関連記事リンク:高知の雪国・梼原と脱藩の峠

楮佐古林道のダート道

高知学トップページに戻る

 

(おわり)

2016年11月19日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

56 龍馬のレポート 3:後藤象二郎と岩崎彌太郎、未完に終わる大目的

高知では、何かとネーミングにつくことが多い「龍馬」.

観光振興といえば、国内、海外向けを問わず、「龍馬」が出てくる.

いささか「龍馬」には飽きが来ている気もするが.

しかし、改めて龍馬の生涯を振り返ってみると、そこには沢山の教訓が残されている.

その1と2では、八つの教えを記した.

京都で一生を終えるまでの期間を辿る.

 

2017年4月7日 修正版

 

 

1.タフコーディネーター

 

(瀬戸内海)

 

1867年の長崎には、3人の土佐人が揃っていた.

坂本龍馬、後藤象二郎、岩崎弥太郎である.

彼らに共通するのは、タフコーディネーターであることである.

自分の意志を明確に持ち、それを貫く.

その点では「いごっそう」と言えるが、硬直的に主張するのではない.

1867年4月、龍馬がリースした船が、瀬戸内海で紀州藩船と衝突し、沈没した.

相手は、徳川御三家の政治力で処理しようとするが、龍馬は硬軟両方で対応する.

事実関係から「万国公法」に照らすとして、国際的な自船航路の正当性を主張する.

一方、紀州に否があるとする歌を流行らせ、紀州討伐の噂を流して世論に訴える.

最後に、土佐藩を代表する象二郎が表に出て、決着させる.

1867年9月、長崎で土佐人が英国水兵を殺害した疑いで、英国公使パークスと通訳のサトウが須崎にやってきた.

 

(須崎湾)

 

後藤象二郎が対応する.

パークスは、これまでアジア各地でやってきた流儀で、頭から罵声を浴びせる.

同席の幕府重役はおたおたする.

象二郎は冷然として、その態度では交渉にならないと言い放つ.

パークスは応対の率直さを逆に評価し、以後親しくすることを誓い合う.

 

koutijyouenbou

(高知城下)

 

岩崎彌太郎は、長崎の土佐藩出張所のよろず責任者であった.

象二郎はやたらと艦船購入に金を使うし、藩が世間知らずで外国人と交わした諸契約ももめている.

自転車経営で、借金返済のために内外で借金をする.

接待漬けにしてうやむやにする.

彌太郎は、いつでも、どこにでも、足まめに出歩く人物であったと伝えられる.

いつの時代でも、フェイスとフェイスのコミュニケーションが、交渉の基本である.

外国語はできなかったが、弱い立場でありながら、外国人と対等以上の態度で、海千山千の戦争商人と渡り合う.

自身の遊興が過ぎるとして、更迭の話も出るが、余人には代え難く、いつも沙汰止みとなる.

龍馬の教訓の第九は、リーダーはタフな折衝ができなければならない、ということである.

 

yatarouseika

(岩崎彌太郎生家)

 

2.箇条書き

 

1867年当時、幕府は長州との戦争にも敗れ、統率力に欠けてきたことは明らかであった.

それではどうするか、各大名はドイツ、英国の憲法、議会制度も調べる.

徳川は退陣し、藩主などによる会議を設け、結果を天皇を長とする朝廷が発令する仕組みが、大方の意向である.

英国は日本とどのように接するか、公使を始め、外交官が各地を回り、情報を収集していた.

その一人、日本語を駆使し、日本人以上に日本の機微に通じるとされた、アーネスト・サトウも、上のような趣旨を、1866年、横浜の英字新聞に寄稿している.

それが日本語に翻訳され、「英国策論」として印刷され、各地の書店で販売された.

1867年1月、サトウが宇和島藩主から、これを読んだと告げられているが、衝撃的な内容とは受け取られていない.

 

しかし、徳川退陣を自主的に行うのか、クーデターによるのか、その後の主導権争奪、各藩の内情などがからんで、流動的であった.

1867年6月、後藤象二郎は龍馬を伴って、京都に行く.

土佐藩を代表し、各方面と接触するためである.

その際、船上で作成されたのが「船中八策」である.

内容は議会制、朝廷の関与など、これまで検討されてきたことであるが、各人の胸の内にあるのではなく、明文化さている.

それもよくある美文調ではなく、簡潔な八個の箇条書きで、理解されやすい.

龍馬の第十の教訓は、方針は簡単明瞭な箇条書きで示されなくてはならない、ということである.

 

uenosaigousan

(上野公園)

 

3.改革での危険

 

龍馬は1866年1月、薩長同盟成立の翌日、伏見の寺田屋にいるところを襲撃された.

重傷を負ったが、お龍のおかげで薩摩藩邸に引き取られた.

1867年10月、徳川の自主的退陣「大政奉還」の表明後、龍馬は福井に行くなど、後藤と共に事後策に追われていた.

ひと月後、11月15日に京都の下宿で暗殺される.

 

(京都の町)

 

土佐藩が駆け付けるが、間に合わない.

いずれも予想されたことである.

なぜ事前に薩摩、土佐の藩邸に居を構えなかったのか.

龍馬のこれまでの行動からして、彼の大目的は、閉鎖的な藩の解体、武士を頂点とする身分制の打破であったと想像する.

藩を否定する考えを持つのに、危険だからと庇護を受けるわけにはゆかない.

龍馬は大目的の達成に向けて、次の段階をどのように考えていたかはわからない.

しかしその後、土佐藩士であった自由民権の板垣退助、中村出身で帝国主義を否定した幸徳秋水、高知の家系で敗戦後の民主主義下の吉田茂、と繋がって行くのではないだろうか.

龍馬の最後の教訓は、所信を貫くには必ず危険が伴う、ということである.

 

 

リンク:龍馬のレポート 1

    龍馬のレポート 2

高知学トップページに戻る

 

参考にした主な文献

1)池田敬正:「坂本龍馬」、中公新書、1965

2)大橋昭夫:「後藤象二郎」、三一書房、1993

3)伊井直行:「岩崎彌太郎」、講談社現代新書、2010

4)アーネスト・サトウ:「一外交官の見た明治維新」上下、岩波文庫、1960

 

(おわり)

 

 

2016年11月4日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

55 龍馬のレポート 2:勝海舟、後藤象二郎、権力との付き合い

現在では、すっかり高知の観光イメージキャラクターになっている坂本龍馬.

しかし改めて考えると、龍馬の残した数々の教えがある.

その1では、江戸への留学から、各地の放浪まで、四つの教訓を述べた.

その後の、先端技術への挑戦を始めに、続けて考えよう.

 

2016年10月30日 最終版

 

1.先端技術

 

shimakaze

(高知港の護衛艦)

 

龍馬は、当時の最先端技術である、洋式船に携わりたいと考えていた.

すでに黒船を見ているし、開港された横浜には、外国船が頻繁に出入りし、貿易が活発である.

国防、交易だけでなく、輸送の革命をもたらすものである.

薩摩から江戸一帯を徒歩で旅した龍馬には、それがどれだけの効果もたらすか、身に染みてわかる.

1862年に脱藩して、海軍奉行並の勝海舟への接近を考えた.

しかし、幕府の要職にある人に、いきなり「たのもう!」という訳にはいかない.

伝手から伝手をたどる.

龍馬は、目を吊り上げて平伏し、「お願いします!」というタイプではない.

各地の生の情報を基に、あれこれと話す.

その内に、聞き手は「そんなことを考えているのか、それならこの人に会ってみては」などとなる.

一浪人だが、最終的には越前藩主、松平慶永の紹介を得て、勝海舟の部下となる.

龍馬の第五の教訓は、先端技術に果敢に挑戦するには、周到な事前準備が必要ということである.

 

2.リクルート

 

勝海舟は、1860年の咸臨丸でのアメリカ航海の体験で、軍艦乗組員の育成が重要であることを認識していた.

船は金を出せば、外国から購入できる.

しかしその乗組員は、時間と手間をかけて、国内で育てなくてはならない.

船の運航は肉体労働を伴う.

命令だけする武士ではどうにもならない.

龍馬は意を受けて、土佐で馴染みの、末端に位置する若者を多数リクルートする.

そうなると、脱藩の犯罪人では具合が悪い.

海舟の口利きで、土佐藩より罪が許され、正式に活動が許される.

海舟は1863年4月、神戸に海軍操練所を設立することになり、龍馬が塾頭に任ぜられる.

広く、幕臣、藩、家柄を問わない、有為の人材を募集する.

龍馬は希望に満ちた充実の日々を送る.

海舟を通じ、これまで繋がりがなかった薩摩とも親交が生まれた.

龍馬の第六の教訓は、人材はフィルターにかけて集めるのではなく、自身の責任で育てるということである.

 

kobenoyoru

(神戸港の夜)

 

3.ビジネス

 

当時の政治は、薩摩、長州などの強力な藩を取り込むか、フランスの援助を基に旧体制を維持するか、揺れていた.

後者が勝ち、1864年10月、海舟は失脚し、1年半で海軍訓練所は閉鎖される.

では今居る所員と共にどうするか.

 

gurabaatei

(長崎、グラバー邸)

 

自ら道を切り開くしかない.

龍馬は薩摩から江戸を奔走する.

長崎は昔からの国際貿易港であり、船舶、武器を扱う外国商人が多く出入りしている.

乱世ではビジネスチャンスが多く、ここに本拠を置く.

亀山社中、そして後の海援隊である.

 

 

 

 

事業内容は次のようである.

1)訓練の成果を生かした、船舶の運転

2)自由な立場を生かした、各藩の船舶、武器、糧秣購入の斡旋、仲介

3)自己保有船、借用船による運送

特に、表面には出難い長州、基盤の人材に不足勝ちな薩摩には重宝がられる.

ただ運送業は、嵐による沈没、他藩船との衝突など、不運続きであった.

龍馬の第七の教訓は、今居る組織が解体されても、培った技術を展開してビジネスにするということである.

 

4.権力と財力

 

sakurajima

(桜島)

 

龍馬は次第に政治の世界に入る.

尊王攘夷!などと叫ぶ、観念的なイデオロギーではない.

階級によらず努力する普通の人たちが、制限なく活動し、外国に負けない技術を持つ日本をつくる.

これまで目指してきたことである.

しかし、体制を変えないことにはどうにもならない.

そのため、実力を持つ薩摩、長州と行動を共にしてきた.

薩長の同盟も仲介した.

しかし、それぞれの藩は好意を寄せても、部外の人間ではある.

そこに1866年7月、土佐藩から後藤象二郎が長崎にやってきた.

後藤は藩主の信認が厚く、最高実力者である.

当時25歳であったが、長崎で汽船1隻を購入の予定であったところ.上海まで行って、7隻も購入する.

当然資金のやりくりが問題になるが、担当は土佐から来させた岩崎弥太郎である.

ただ、土佐藩はまだ藩外とのコネクションが不足である.

龍馬にはそれがある.

半年後の1867年2月、後藤、龍馬はついに会談を行い、共同で活動を行うことで意見が一致する.

龍馬は正式の藩士ではないが、土佐藩の後ろ盾ができ、薩長と対等な応対が可能になる.

 

 

 

また、これまで亀山社中は、薩摩藩の手当を受けていた.

土佐藩の正式外郭団体となった海援隊に、後藤は1万両を拠出し、手当も出す.

後藤は、龍馬のかつての師である武市半平太を追放し、切腹に追い込んだ人物である.

しかし、互いにそれには触れない.

龍馬の第八の教訓は、大仕事をなすときは、権力、財力を持つ機関を、対等な立場を持って利用するということである.

 

リンク:龍馬のレポート 1

    龍馬のレポート 3

高知学トップページに戻る

 

(おわり)

2016年10月19日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

54 龍馬のレポート 1:河田小龍、武市半平太、集団と個人

高知と言えば、坂本龍馬が連想される.

空港を始めとして、居酒屋、ラーメン、学校、タクシー、などなど、「龍馬」の名を被せた施設は、県内至る所に見受けられる.

イベントがあれば、龍馬の着ぐるみが出てくる.

今では龍馬は、高知の単なる観光イメージキャラクターに過ぎないように思われる.

しかし、龍馬は高知に何を教えるのか.

今一度考え直してみよう.

 

2016年10月18日 最終版

 

katurahamaryouma

(桂浜)

 

1.打って出る

 

龍馬は1835年、裕福な家の次男坊として生まれた.

1853年、18歳のとき、江戸に留学に向かった.

剣術修行ではあるが、当時実用的な剣術はほとんど不要であった(後の動乱の時代で有効にはなるが).

今でいえば、サッカーのスポーツ留学のようなものである.

身分制など、何かと束縛の多い高知を脱出する.

政経の中心で自由に生活し、部活に励むことに、心は踊ったであろう.

しかもこの年、黒船が来航し、江戸、そして日本は混乱の時期になる.

龍馬は、高知では決して体験ができない、新しい世界に触れることになる.

龍馬の第一の教訓は、見知った土地に留まらないということである.

今、東京は近過ぎて、龍馬のように別の世界に触れることにはならない.

海外である.

それも激動の地域でなくてはならない.

北京は候補の一つかもしれない.

 

kuru-zusenn

(高知港.クルーズ船の来航)

 

2.変化を捉える

 

龍馬は江戸に居るときには、外人が来れば首を打ち取る!などと、一人前の発言をしていた.

1年後に高知に戻った.

河田小龍を訪ねた.

 

 

小龍は、ジョン万次郎からアメリカの事情を詳しく聞き、著書にしている.

-日本はガラパゴス体制である-

また、肥前藩の技術を継承した、薩摩藩に反射炉技術を学んでいる.

-藩体制の否定である-

洋式の汽船と航海術を取りいれることが急務であると主張している.

-技術革新である-

さらに、土佐藩では防衛に不足であるとして、農民から民兵を募っていた.

-武士の否定である-

世の中は、江戸の単純な「世論」のようには動いていないことを認識する.

龍馬の第二の教訓は、表面的な世論に惑わされず、底に潜む変化を読み取るということである.

 

nakahamanomati

(ジョン万次郎が生まれた中浜)

 

3.集団と個人

 

問題意識はあっても、一人では進展しない.

龍馬は、城下で道場を開いていた、6歳年上の武市半平太のグループに加わる.

後に土佐勤王党となるが、これは秘密結社めいたものではない.

土佐藩の方向は、守旧、革新と揺れたいたので、反体制ということでもない.

200名くらいのメンバーがいたが、必ずしも考えや行動が統一されてはいなかった.

ただ、武士はほとんど居なかった.

制約に縛られない、野党グループといってよいであろう.

盟約書には勇ましく、攘夷(アンチグローバル)、尊王(打倒現体制)と書かれている.

しかし、龍馬はそれに取り組んではいない.

ただこれによって、土佐領内のみならず、長州人、薩摩人との交流が生まれる.

そして、集団を離れ、日本各地へ向かう.

龍馬の第三の教訓は、集団に属しても闇雲に従うのではなく、互いに利用するということである.

 

taketikyuutaku

(武市半平太旧宅)

 

4.ネットワーク

 

龍馬は最初の江戸行きから2年後、21歳で再び江戸に向かい、2年後、1858年に帰る.

1861年、半平太の使いで、国境で長州人と会う.

その際、藩には丸亀に剣術勉強で赴くと届けた.

しかし、出てしまえば勝ちで、長州、大阪を回って帰る.

1年後、半平太は龍馬を長州に派遣し、長州人、薩摩人と連絡を取らせる.

龍馬はさらに、京、大阪を回って3ヶ月後、3月1日に高知に帰り、半平太に報告する.

そして、3週間後、3月24日に脱藩する.

藩命の制約、半平太のメッセンジャーには飽き足らず、自由な立場での行動をとる.

 

yukinodappann

(梼原.脱藩の道)

 

しかし、脱藩は周到な準備の下で行われている.

同志の強いサポートがなければ、高知城下から山道と船によって、6日間で長州に達することはできない.

また、予め長州と話しをつけておかなければ、潜入はできない.

龍馬は、長州から未知であった薩摩に向かうが、関所で拒否された.

その後、大阪から江戸に向かう.

 

 

 

何が龍馬をあちこちに駆り立てたのか.

「何でも見てやろう」なのか、「自分探しの旅」なのか.

いずれにしても、この間で次第に人脈は増して行く.

龍馬は、「茫洋としている」「遠慮がない」「ゆっくり話す」「愛すべき人」「本は読まない」などと評されている.

目から鼻に抜ける鋭利さは伺えないし、色黒で、イケメンでもない.

話し手が気を許して、つい本音を話してしまう、というタイプである.

龍馬の第四の教訓は、現場を足で回って、人的ネットワークを増す、ということである.

 

リンク:龍馬のレポート 2

    雪国梼原・龍馬脱藩の町

高知学トップページに戻る

 

(おわり)

2016年10月9日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一