55 龍馬のレポート 2:勝海舟、後藤象二郎、権力との付き合い

現在では、すっかり高知の観光イメージキャラクターになっている坂本龍馬.

しかし改めて考えると、龍馬の残した数々の教えがある.

その1では、江戸への留学から各地の放浪まで、武市半平太、河田小龍との関係から述べた.

集団と個人の関係である.

その中で得られる、四つの教訓を述べた.

その後の、先端技術への挑戦を始めに、続けて考えよう.

 

2017年10月14日 改訂版

 

1.先端技術

 

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(高知港の護衛艦)

 

龍馬は、当時の最先端技術である、洋式船に携わりたいと考えていた.

すでに黒船を見ているし、開港された横浜には、外国船が頻繁に出入りし、貿易が活発である.

国防、交易だけでなく、輸送の革命をもたらす.

薩摩から江戸一帯を徒歩で旅した龍馬には、それがどれだけの効果をもたらすか、身に染みてわかる.

1862年に脱藩して、海軍奉行並の勝海舟への接近を考えた.

しかし、幕府の要職にある人に、いきなり「たのもう!」という訳にはいかない.

伝手から伝手をたどる.

龍馬は、目を吊り上げて平伏し、「お願いします!」というタイプではない.

各地の生の情報を基に、あれこれと雑談する.

その内に、聞き手は「そんなことを考えているのか、それならこの人に会ってみては」などとなる.

一浪人だが、最終的には越前藩主、松平慶永の紹介を得て、勝海舟の部下となる.

龍馬の第五の教訓は、先端技術に果敢に挑戦するには、周到な事前準備が必要ということである.

 

2.リクルート

 

勝海舟は、1860年の咸臨丸でのアメリカ航海の体験で、軍艦乗組員の育成が重要であることを認識していた.

船は金を出せば、外国から購入できる.

しかしその乗組員は、時間と手間をかけて、日本人を育てなくてはならない.

船の運航は肉体労働を伴う.

命令だけする武士ではどうにもならない.

龍馬は意を受けて、土佐で馴染みの、末端に位置する若者を多数リクルートする.

そうなると、脱藩の犯罪人では具合が悪い.

海舟の口利きで、土佐藩より罪が許され、正式に活動が許される.

海舟は1863年4月、神戸に海軍操練所を設立することになり、龍馬が塾頭に任ぜられる.

幕臣、藩、家柄を問わない、有為の人材を広く募集する.

龍馬は希望に満ちた充実の日々を送る.

海舟を通じ、これまで繋がりがなかった薩摩とも親交が生まれた.

龍馬の第六の教訓は、人材はフィルターにかけて集めるのではなく、強い意思で育てるということである.

 

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(神戸港の夜)

 

3.ビジネス

 

当時の幕府は、薩摩、長州の強力な藩を取り込む挙国体制か、フランスの援助を基に旧体制を維持するか、揺れていた.

後者が勝ち、1864年10月、海舟は失脚し、1年半で海軍訓練所は閉鎖される.

では龍馬は所員と共にどうするか.

 

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(長崎、グラバー邸)

 

自ら道を切り開くしかない.

龍馬は薩摩から江戸を奔走する.

長崎は昔からの国際貿易港であり、船舶、武器を扱う外国商人が多く出入りしている.

乱世にはビジネスチャンスが多く、ここに本拠を置く.

亀山社中、そして後の海援隊である.

 

 

事業内容は次のようである.

1)訓練の成果を生かした、船舶の運転

2)自由な立場を生かした、各藩の船舶、武器、糧秣購入の斡旋、仲介

3)自己保有船、借用船による運送

特に、表立って出難い長州、人材に不足勝ちな薩摩には重宝がられる.

ただ運送業は、嵐による沈没、他藩船との衝突など、不運続きであった.

龍馬の第七の教訓は、今居る組織が解体されても、培った技術を展開して自らビジネスにするということである.

 

4.権力と財力

 

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(桜島)

 

龍馬は次第に政治の世界に入る.

尊王攘夷!などと叫ぶ、観念的なイデオロギーではない.

階級によらず努力する普通の人たちが、制限なく活動し、外国に負けない技術を持つ日本をつくる.

これまで目指してきたことである.

しかし、体制を変えないことにはどうにもならない.

そのため、実力を持つ薩摩、長州と行動を共にしてきた.

薩長の同盟も仲介した.

しかし、それぞれの藩は好意を寄せても、部外の人間ではある.

そこに1866年7月、土佐藩から後藤象二郎が長崎にやってきた.

後藤は藩主の信認が厚く、最高実力者である.

当時25歳であったが、長崎で汽船1隻を購入の予定であったところ.上海まで行って、7隻も購入する.

当然資金が問題になるが、担当は土佐から連れてきた岩崎弥太郎である.

ただ、土佐藩は藩外とのコネクションが不足である.

龍馬にはそれがある.

半年後の1867年2月、後藤、龍馬はついに会談し、共同で活動を行うことで意見が一致する.

龍馬は正式の藩士ではないが、土佐藩の後ろ盾ができ、薩長と対等な応対が可能になる.

 

 

また、これまで亀山社中は、薩摩藩の手当を受けていた.

土佐藩の正式外郭団体となった海援隊に、後藤は1万両を拠出し、手当も出す.

後藤は、龍馬のかつての師である武市半平太を追放し、切腹に追い込んだ人物である.

しかし、互いにそれには触れない.

龍馬の第八の教訓は、大仕事をなすときは、権力、財力を持つ機関を、対等な立場を持って利用するということである.

 

リンク:龍馬のレポート1 集団と個人

    龍馬のレポート 3

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(おわり)

2016年10月19日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一