59 JR四国のバースデイ切符で四国西部を回る

JR四国の「バースデイ切符」.

誕生月の3日間、特急グリーン車乗り放題で10,280円、同伴者も同じ金額のお得な切符である.

12月が誕生月で、毎年利用する.

いつも、乗り回す体力勝負になっているので、ウチのお母さんは遠慮する.

土讃線土佐山田を朝出て西に宿毛へ.

宿毛から宇和島へバスに乗るが、これは切符の範囲外で別途支払い.

宇和島から松山、丸亀を経由し、夜に土佐山田へ戻る.

 

2017年7月28日 修正版

 

 

  1. 土讃線

 

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(土佐山田)

 

非電化の駅には架線が無く、冬の凛とした空が広い.

高知城が朝日を受けている.

しかし、北の山並には、厚い雪雲がかかる.

西に、土佐久礼は海岸である.

運転席のディスプレイには、「津波浸水区間」と表示されている.

ここから12km登る.

 

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(久礼坂を登る)

 

登ったところは四万十川流域である.

窪川からは、土佐くろしお鉄道線となる.

長髪の運転士と、女性車掌に代わる.

先の川奥信号場で予土線と分岐し、ループ線となって1周して下り、信号場の真下に出てくる.

トンネル内の一定の曲率なので、ループを通っている実感はないが、運転席の前を見ているとかなりの急曲線である.

 

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(トンネルを出る)

 

出ると海岸である.

四万十川は、このループで降りてきた標高差によって、河口まで流れているわけである.

 

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(佐賀公園付近)

 

2.宿毛線

 

中村1037着   宿毛行普通列車1041発

 

特急は中村迄で、宿毛には乗り換える.

以前は、ほとんどの特急が宿毛迄運行されていたが、今は乗客減と経費節減で、上下併せて3本だけである.

しかし普通車両の窓は大きく、インテリアも明るい.

 

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(普通列車宿毛行)

 

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(四万十川)

 

四万十川の長い橋梁を渡る.

 

3.宇和島へ

 

1037  宿毛着  1042 宇和島行バス発

 

「ミッシングリンク」という言葉がある.

もともとは、猿人と人類の間を繋ぐ化石が見つからないことを意味している.

しかし昨今では、もっぱら環状となるべき高速道路の未開通区間として使われる.

四国の鉄道ならば、東の甲浦から室戸を回って奈半利まで、西の宿毛から宇和島までが「ミッシング」である.

高速道路も似たような区間が「ミッシング」である.

高速道路のミッシングリンクは大いに叫ばれるが、鉄道のミッシングリンク解消の「悲願」は聞かれない.

 

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(宿毛駅前)

 

宇和島行バスの車内に、時折澄んだ鈴の音が聞こえる.

老婦人のお遍路さんのものである.

どのような発心かはわからないが、バス、鉄道を乗り継ぐのも、回数が多い訳ではないし大変である.

40番、観自在寺のお参りである.

自分の車でこの辺りは通っているが、町は大体バイパスである.

バスは律儀に旧道の町々を通るので、印象は大分異なる.

城辺など、バスターミナル、ビジネスホテルや長い商店街があって、意外に大きい町である.

ただ多くはシャッターを閉ざしているが.

近くの山は白い.

豊後水道から吹きつける西風が冷たいのだろう.

宇和島に近づくころ雨が降り出してきた.

1,800円を支払って降りる.

 

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(宇和島駅)

 

4.松山へ

 

宇和島1228着 予讃線特急宇和海18号 1358発

 

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(宇和島駅ホーム)

 

宇和島城へとも思っていたが、慌ててコンビニ傘を買うような降りである.

地元の料理は何回か食べているので、横丁の落ち着いたラーメン屋に入った.

松山との間の特急宇和海は、松山でも宇和島でも、すぐに折り返す効率的な運用である.

そのため、基地に戻らず、ホームに停車中に給油ができるようになっている.

 

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(法華津峠へ)

 

法華津峠に向けて登る.

一帯はみかん畑である.

大体は取り入れされているが、ところどころ電燈がついたように橙色の実が残る.

 

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(雨上がり)

 

やがて雨は止み、雲だけが残る.

 

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(松山)

 

松山は高架化準備中で、車両基地、貨物ターミナルの移転工事が進められている.

乗換に便利なように、岡山行、宇和島行特急が、同じホームに付き合わせて停車する姿がなくなる日は遠くない.

 

5.予讃線

 

松山1628発 しおかぜ26号 丸亀1830 着

 

松山の改札で切符を見せると、駅員に「おめでとうございます」と言われた.

繁華街の大街道まで路面電車に乗る.

「坊っちゃん列車」に出会う.

乗務員は、吹きさらしだし、終点での人力による方向転換などハードな仕事である.

しかし、誇りを持ってやっている様子は、観光客にうれしい.

 

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(瀬戸の夕暮れ)

 

瀬戸内の島に冬の夕暮れの雲が広がる.

丸亀で土讃線に乗り換える.

 

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(電車特急しおかぜ)

 

駅前の猪熊玄一郎美術館のエントランスに明かりが点る.

 

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(丸亀駅前)

 

6.土讃線で帰る

 

丸亀1846発 南風21号  土佐山田2037着

 

土讃線は阿波池田を過ぎると山の中である.

窓外は真っ暗で、時折ぽつりと灯が見える.

他に誰もいない車室の中に、エンジンの音が絶え間なく高く低く響き、闇の中を右に左に曲がる.

この旅が行方知らずで、いつまでも続くような気持になる.

疲れたのかもしれない.

 

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(土佐山田)

 

夜の駅は無人である.

切符を集めて回る車掌の向こうに月が見える.

 

関連記事リンク:

特急グリーン車乗り放題で四国東部を回る

鍋焼きラーメンの須崎が日本を支える

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(おわり)

 

 

2016年12月25日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

58 高知でジビエ料理.ハクビシン、シカ、イノシシ.肉はどこで買う?

毎年、県民の投票によって、高知でお勧めの料理店を選出する、「高知家グルメガイド」の催しがある.

結果はパンフレットになって、観光案内所などで配布される.

これまで、鰹たたきの店が、1位を続けて獲得していた.

ところが2016年では、高知市内のジビエレストラン、Nが県内1 位となった.

周辺の「選挙運動」があったのかもしれないが、高知イコール鰹たたき、の固定観念を破る快挙である.

女店主、Nさんは高知のジビエ料理の開拓者である.

シカといえばシカソーセージ、イノシシといえば猪鍋、といった、よくあるレシピではない.

ロースト、グリル、アヒージョなど、ワインが合う洗練された料理である.

身辺ではハクビシンも加わった.

 

 

2017年7月28日 修正版

 

1.ハクビシン

 

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(近くの茂みで)

 

ハクビシンは、タヌキ位の大きさの小動物である.

日本固有の種ではないが、いつ渡来したのかは不明なので、特定外来動物ではない.

果実が好きで、ミカン畑を荒らす.

カキやイチジクなど、熟してきて、明日辺りが食べごろかと思う.

ところが、次の日はもうハクビシンにやられている.

味覚の鋭いグルメなのである.

自宅近くの林にもいるらしく、前の側溝を走っていた.

 

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(ハクビシンパーティ)

 

町内の人が、落し罠で2匹を捕らえたというので、8人で自宅で焼肉パーティを行うことになった.

熟達の職人?が備長炭で焼く.

ベジタリアンで、グルメなハクビシンが不味かろうはずはない.

脂は少なく、ほろほろとした柔らかさで、コンビーフに似た食感である.

もちろん、けもの臭さなどない.

 

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(ハクビシンのシチュー)

 

余った骨付き肉でシチューをつくった.

 

2.ジビエフェスタ

 

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(山の会場)

 

毎年秋、標高730m、大豊町の山の上にある「ゆとりすとパーク」でジビエフェスタが開かれる.

前記Nさんが始めに企画した催しである.

ジビエに関したいろいろな出店がある.

 

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(イノシシの丸焼き)

 

丸焼きは、焼いてさばくのが追い付かず、長蛇の列である.

ローストやグリルなど、買い求めてすぐ山を下りる人が多いようで、時間が経っていないのにもう売り切れである.

ジビエの人気は大変高いようだ.

ただ山の上で、風は強いし、日が陰ると寒い.

屋外のテントやテーブルではゆっくりできない.

そう言ってはなんだが、出店もよくある焼きそばやカレーが多く、B級的雰囲気である.

以前は室内で、シェフがその場でジビエを調理したり、輸入生ビールやワインがあって、A級的に落ち着いて食事が楽しめたのだが.

地元工房の肉を使った、山の民宿Mのシカ肉ミンチのペンネを食べた.

丁寧に料理されていた.

 

3.北海道のジビエ

 

秋に北海道、釧路から根室にかけて旅行した.

根釧原野、湿原を6日間歩いた.

ホテル、民宿で5泊したが、その間の夕食は次の内容である.

カニ、イクラ、ウニ、柳カレイ、宗八カレイ、ホッケ、ニシン、サンマ.

魚には食傷して、エゾシカも多いことだし、釧路でジビエ料理を探したが、見つからなかった.

 

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(エゾシカ)

 

釧路・根室近辺は、特にエゾシカと車の衝突事故が多く、年間500件に上るという.

高知では、土讃線の同じ特急が、続けて2度シカをはねる事故があった.

レンタカーを借りるとき、このプランでは、シカとぶつかっても車両保険は出ないと注意された.

危険個所を示す、エゾシカ衝突事故マップを渡された.

風連湖に行ったが、国道傍の草叢で2頭が草を食べていた.

ネイチャーセンターでは5頭に出会った.

所員の説明では、原生花園を荒らしていて、対策に追われているそうだ.

 

4.高知のジビエ

 

もし、高知で同じ5泊6日の旅行をするとして、夕食はどうなるだろうか.

1日目、鰹たたきは確実である.

2,3日目も寿司、生簀、貝類など魚で行けそうである.

4,5日目はどうか.

イタリアン、中華などもあるが、東京で食べられるものを、旅行に来て食べる気はしないだろう.

そこでジビエである.

高知観光の楽しみを広げてくれる.

 

5.ジビエの原材料

 

高知では、イノシシ、シカの農作、森林被害がひどく、年間ほぼ各2万頭が駆除されている.

しかし、それでもまだ自然減には至らない.

 

駆除された動物は、ほとんどその場に埋められる.

もったいない、食べては、という気もする.

しかし、我々が牛や豚をおいしく食べられるのは、一定の場所で、絶命後、瞬時に解体されるからである.

野生動物に対して、これを行うことは大変難しい.

銃砲にせよ、罠にせよ、止めをさした後、すぐに血管、気管を切断し、血を出す.

シカは、少なくとも1時間以内に処理する必要があるという.

大変手間がかかるし、そのような狩りの場所は限られる.

ジビエは極めて貴重な食材なのである.

 

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(猪鹿工房O)

 

今回、大豊町、岩原の山にある猪鹿工房Oで1.5kgを買った.

 

関連記事リンク:

高知のジビエ.シカ、イノシシを食べる

高知で魚を獲る、買う、食べる

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(おわり)

 

2016年12月9日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

57 高知の山のドライブ:瓶ヶ森の霧氷、天狗高原の夜明け

四国を縦断して、背骨のように高い山が連なっている.

東には、徳島県の標高1,954mの剣山がある.

そこから西に、1,500mクラスの山が続く.

愛媛県の石鎚山は、西日本最高で1,982mである.

南は、石灰岩のカルスト台地である、1,485mの天狗高原である.

これらの山々が、各県の県境になっている.

石鎚山系の瓶ヶ森と天狗高原を訪ねてみよう.

山岳道路がある.

 

2017年4月23日 最終版

 

 

1.  瓶ヶ森

 

(町道 瓶ヶ森線)

 

高い山の多くは、頂上かなり近くまで自動車道がある.

石鎚山には、北側からはロープウエイがあり、南側からは「スカイライン」で登ることができる.

ただし鎖を伝って登るなど、修行、登山の覚悟が必要で、観光気分では行けない.

愛媛県は、その瀬戸内沿岸がほとんど工場地帯になっているので、大変富裕である.

従って、県道の石鎚スカイラインは2車線で整備されている.

一方、瓶ヶ森は1,896mでやや低いが、車道から見通しの良い笹原を通って、頂上まで1時間もかからない.

小学生でも容易である.

こちらは、高知県の領域で、石鎚に繋がる尾根を通る林道で行く.

林道は「いの町道」なので狭い.

しかし、広いと自然破壊は進む.

ときどき大きく崩れ、町が維持するだけでも大変である.

 

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(沿道の山々)

 

北面から稜線にかけて、枝葉は桜が咲いたように白い.

似た高さの、屋久島、宮之浦岳は海から尖って聳えている.

海岸から頂上には直線距離で15kmほどである.

石鎚も海岸から山頂まで、同じような距離で近い.

石鎚山系は、あたかも屋久島が連なったような壁になって、海に面している.

北風は壁に当たり、急上昇し、急冷される.

そこで木々に霧氷を咲かせることになる.

 

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(霧氷)

 

瓶ヶ森まで登るつもりであったが、ガスの中である.

翌日にして、1,450mにある山荘に早々と向かった.

珈琲を飲みに立寄っているツーリングの若者たちはいるが、宿泊は我々だけである.

部屋を用意していただき、炬燵で昼寝やら持ってきた本を読むやら、夕方になった.

山荘は吉野川の源流域にあり、ブナ林から滲み出る水はまことに清冽である.

食後、薪の燃える前で、喉に染み入る水を肴に、白ワインを1本空けてしまった.

 

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(山荘の火)

 

山荘の管理者の娘さんは小学生だが、通学では、麓に車で30分送ってスクールバスに乗せる.

バスは30分かかって学校に着く.

帰りも同じで、1時間以上はかかる.

町道は12月から積雪で通行止めになる.

山荘も11月末で閉ざし、一家5人は下に降りる.

 

(なお、山荘しらさは改装のため、2019年4月まで休館中)

 

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(朝の石鎚山)

 

翌朝は晴れて、石鎚と海岸の町が見える.

管理者一家に見送られて、瓶ヶ森に向かう.

気温が高まり、霧氷が滴り落ちる.

 

 

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(瓶ヶ森山頂)

 

2.天狗高原

 

四国の山は石灰岩質のところが多い.

天狗高原は、侵食され、広大な土地に石灰岩が点々と露出するカルストになっている.

昔は焼畑農業が行われたが、現在は一面ススキの原になっている.

 

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(天狗高原)

 

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(夕暮れのカルスト台地)

 

 

登るにはいくつかのルートがある.

一般的には、197号から2車線の東津野城川林道を通る.

地図などでは、国道、県道を通るルートが示されるが、こちらは逆に狭くて、屈曲が多い.

林道は、1969年に計画がつくられた、土佐清水から伊野北部に至る、延長188kmの幹線林道計画の一部なのである.

本来の伐採、運搬の用というより、観光路線になっている.

これより北にある小田池川林道も、同じように大規模だが、どこにも繋がっていないので交通量はゼロに近い.

繋がれば観光路線になる要素はあるのだが.

今回は梼原から、龍馬脱藩の道、韮ヶ峠に上がった.

高原の道は、尾根を緩やかなうねりで続いている.

春から夏は牛が放牧されるが、今は牛舎に戻っている.

 

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(宿舎の朝)

 

高原にはT荘がある.

山の上に旅館があるイメージで、格別変わってはいないが、夜には星の観察会がある.

高知市内から車で2時間程度、町営バスもあり、日帰りが十分可能である.

泊り客も多い.

山上の道は冬季閉鎖されるが、ここは年中の営業である.

ただ下から登る車道には、厳冬に積雪、凍結がある.

 

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(橇遊び)

 

高知で雪遊びができるところはほとんどない.

ここには元スキー場の斜面があり、子どもたちがレンタル橇で遊ぶ.

上は結構急斜面で、速度が出てひっくり返ったり、ぶつかったりしているが、高知ではすべて自己責任である.

高原で泊まるには晴天に限る.

雨なら雲の中である.

秋の朝、日の出前5時半には、ほとんどの泊り客が表に出てくる.

朝日が昇る.

 

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(高原の朝日)

 

低い谷間は雲海である.

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(麓を見下ろす)

 

関連記事リンク:

高知の雪国・梼原と脱藩の峠

楮佐古林道のダート道

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(おわり)

2016年11月19日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

56 龍馬のレポート 3:後藤象二郎と岩崎彌太郎、未完に終わる大目的

高知では、何かとネーミングにつくことが多い「龍馬」.

観光振興といえば、国内、海外を問わず、龍馬が出てくる.

いささか「龍馬」には飽きが来ている気もするが.

しかし、改めて龍馬の生涯を振り返ってみると、そこには沢山の教訓が残されている.

その1と2では、八つの教えを記した.

京都で一生を終えるまでの期間を辿る.

 

2017年10月14日 改訂版

 

 

1.タフコーディネーター

 

(瀬戸内海)

 

1867年の長崎には、3人の土佐人が揃っていた.

坂本龍馬、後藤象二郎、岩崎弥太郎である.

彼らに共通するのは、タフコーディネーターである.

自分の意志を明確に持ち、それを貫く.

その点で「いごっそう」と言えるが、硬直的に主張するのではない.

1867年4月、龍馬がリースした船が、瀬戸内海で紀州藩船と衝突し、沈没した.

相手は、徳川御三家の政治力で処理しようとするが、龍馬は硬軟両方で対応する.

事実関係から「万国公法」に照らすとして、自船航路の国際的正当性を主張する.

一方、紀州に否があるとする歌を流行らせ、紀州討伐の噂を流して世論に訴える.

最後に、土佐藩を代表する象二郎が表に出て、決着させる.

 

(須崎湾)

 

1867年9月、長崎で土佐人が英国水兵を殺害した疑いで、英国公使パークスと通訳のサトウが須崎にやってきた.

後藤象二郎が対応する.

パークスは、これまでアジア各地でやってきた流儀で、頭から罵声を浴びせる.

同席の幕府重役はおたおたする.

象二郎は冷然として、その態度では交渉にならないと言い放つ.

パークスは応対の率直さを逆に評価し、以後親しくすることを誓い合う.

 

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(高知城下)

 

岩崎彌太郎は、長崎の土佐藩出張所のよろず責任者であった.

象二郎はやたらと艦船購入に金を使うし、藩が世間知らずで外国人と交わした諸契約ももめている.

自転車経営で、借金返済のために内外で借金をする.

接待漬けにしてうやむやにする.

彌太郎は、いつでも、どこにでも、足まめに出歩く人物であったと伝えられる.

いつの時代でも、フェイスとフェイスのコミュニケーションが、交渉の基本である.

外国語はできなかったが、弱い立場でありながら、外国人と対等以上の態度で、海千山千の戦争商人と渡り合う.

自身の遊興が過ぎるとして、更迭の話も出るが、余人には代え難く、いつも沙汰止みとなる.

龍馬の教訓の第九は、リーダーはタフな折衝ができなければならない、ということである.

 

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(岩崎彌太郎生家)

 

2.箇条書き

 

1867年当時、幕府は長州との戦争にも敗れ、統率力に欠けてきたことは明らかであった.

それではどうするか、各大名はドイツ、英国の憲法、議会制度を調べる.

徳川は退陣し、藩主などによる会議を設け、結果を天皇を長とする朝廷が発令する仕組みが、大方の意向である.

英国は日本とどのように接するか、公使を始め、外交官が各地を回り、情報を収集していた.

その一人に、日本語を駆使し、日本人以上に日本の機微に通じるとされた、アーネスト・サトウがいた.

彼自身、上のような趣旨を1866年、横浜の英字新聞に寄稿している.

それが日本語に翻訳され、「英国策論」として印刷され、各地の書店で販売された.

 

(宇和島)

 

1867年1月、サトウが宇和島藩主から、これを読んだと告げられているが、衝撃的な内容とは受け取られていない.

しかし、徳川退陣を自主的に行うのか、クーデターによるのか、その後の主導権争奪、各藩の内情などがからんで、流動的であった.

1867年6月、後藤象二郎は龍馬を伴って、京都に行く.

土佐藩を代表し、各方面と接触するためである.

その際、船上で作成されたのが「船中八策」である.

内容は議会制、朝廷の関与など、これまで検討されてきたことであるが、各人の胸の内にあるのではなく、明文化さている.

よくある美文調ではなく、簡潔な八個の箇条書きで、理解されやすい.

龍馬の第十の教訓は、方針は簡潔明瞭な箇条書きで示されなくてはならない、ということである.

 

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(上野公園)

 

3.改革での危険

 

龍馬は1866年1月、薩長同盟成立の翌日、伏見の寺田屋にいるところを襲撃された.

重傷を負ったが、お龍のおかげで薩摩藩邸に引き取られた.

1867年10月、徳川の自主的退陣「大政奉還」の表明後、龍馬は福井に行くなど、後藤と共に事後策に追われていた.

ひと月後、11月15日に京都の下宿で暗殺される.

 

(京都の町)

 

土佐藩が駆け付けるが、間に合わない.

いずれも予想されたことである.

なぜ事前に薩摩、土佐の藩邸に居を構えなかったのか.

龍馬のこれまでの行動からして、彼の大目的は、閉鎖的な藩の解体、武士を頂点とする身分制の打破であったと想像する.

藩を否定する考えを持つのに、危険だからと庇護を受けるわけにはゆかない.

龍馬は大目的の達成に向けて、次の段階をどのように考えていたかはわからない.

しかしその後、土佐藩士であった自由民権の板垣退助、中村出身で帝国主義を否定した幸徳秋水がいる.

さらに、高知の家系で敗戦後の民主主義下の吉田茂、と繋がるのではないだろうか.

龍馬の最後の教訓は、所信を貫くには必ず危険が伴う、ということである.

 

リンク:龍馬のレポート 1

    龍馬のレポート 2

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参考にした主な文献

1)池田敬正:「坂本龍馬」、中公新書、1965

2)大橋昭夫:「後藤象二郎」、三一書房、1993

3)伊井直行:「岩崎彌太郎」、講談社現代新書、2010

4)アーネスト・サトウ:「一外交官の見た明治維新」上下、岩波文庫、1960

 

(おわり)

 

 

2016年11月4日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

55 龍馬のレポート 2:勝海舟、後藤象二郎、権力との付き合い

現在では、すっかり高知の観光イメージキャラクターになっている坂本龍馬.

しかし改めて考えると、龍馬の残した数々の教えがある.

その1では、江戸への留学から各地の放浪まで、武市半平太、河田小龍との関係から述べた.

集団と個人の関係である.

その中で得られる、四つの教訓を述べた.

その後の、先端技術への挑戦を始めに、続けて考えよう.

 

2017年10月14日 改訂版

 

1.先端技術

 

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(高知港の護衛艦)

 

龍馬は、当時の最先端技術である、洋式船に携わりたいと考えていた.

すでに黒船を見ているし、開港された横浜には、外国船が頻繁に出入りし、貿易が活発である.

国防、交易だけでなく、輸送の革命をもたらす.

薩摩から江戸一帯を徒歩で旅した龍馬には、それがどれだけの効果をもたらすか、身に染みてわかる.

1862年に脱藩して、海軍奉行並の勝海舟への接近を考えた.

しかし、幕府の要職にある人に、いきなり「たのもう!」という訳にはいかない.

伝手から伝手をたどる.

龍馬は、目を吊り上げて平伏し、「お願いします!」というタイプではない.

各地の生の情報を基に、あれこれと雑談する.

その内に、聞き手は「そんなことを考えているのか、それならこの人に会ってみては」などとなる.

一浪人だが、最終的には越前藩主、松平慶永の紹介を得て、勝海舟の部下となる.

龍馬の第五の教訓は、先端技術に果敢に挑戦するには、周到な事前準備が必要ということである.

 

2.リクルート

 

勝海舟は、1860年の咸臨丸でのアメリカ航海の体験で、軍艦乗組員の育成が重要であることを認識していた.

船は金を出せば、外国から購入できる.

しかしその乗組員は、時間と手間をかけて、日本人を育てなくてはならない.

船の運航は肉体労働を伴う.

命令だけする武士ではどうにもならない.

龍馬は意を受けて、土佐で馴染みの、末端に位置する若者を多数リクルートする.

そうなると、脱藩の犯罪人では具合が悪い.

海舟の口利きで、土佐藩より罪が許され、正式に活動が許される.

海舟は1863年4月、神戸に海軍操練所を設立することになり、龍馬が塾頭に任ぜられる.

幕臣、藩、家柄を問わない、有為の人材を広く募集する.

龍馬は希望に満ちた充実の日々を送る.

海舟を通じ、これまで繋がりがなかった薩摩とも親交が生まれた.

龍馬の第六の教訓は、人材はフィルターにかけて集めるのではなく、強い意思で育てるということである.

 

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(神戸港の夜)

 

3.ビジネス

 

当時の幕府は、薩摩、長州の強力な藩を取り込む挙国体制か、フランスの援助を基に旧体制を維持するか、揺れていた.

後者が勝ち、1864年10月、海舟は失脚し、1年半で海軍訓練所は閉鎖される.

では龍馬は所員と共にどうするか.

 

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(長崎、グラバー邸)

 

自ら道を切り開くしかない.

龍馬は薩摩から江戸を奔走する.

長崎は昔からの国際貿易港であり、船舶、武器を扱う外国商人が多く出入りしている.

乱世にはビジネスチャンスが多く、ここに本拠を置く.

亀山社中、そして後の海援隊である.

 

 

事業内容は次のようである.

1)訓練の成果を生かした、船舶の運転

2)自由な立場を生かした、各藩の船舶、武器、糧秣購入の斡旋、仲介

3)自己保有船、借用船による運送

特に、表立って出難い長州、人材に不足勝ちな薩摩には重宝がられる.

ただ運送業は、嵐による沈没、他藩船との衝突など、不運続きであった.

龍馬の第七の教訓は、今居る組織が解体されても、培った技術を展開して自らビジネスにするということである.

 

4.権力と財力

 

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(桜島)

 

龍馬は次第に政治の世界に入る.

尊王攘夷!などと叫ぶ、観念的なイデオロギーではない.

階級によらず努力する普通の人たちが、制限なく活動し、外国に負けない技術を持つ日本をつくる.

これまで目指してきたことである.

しかし、体制を変えないことにはどうにもならない.

そのため、実力を持つ薩摩、長州と行動を共にしてきた.

薩長の同盟も仲介した.

しかし、それぞれの藩は好意を寄せても、部外の人間ではある.

そこに1866年7月、土佐藩から後藤象二郎が長崎にやってきた.

後藤は藩主の信認が厚く、最高実力者である.

当時25歳であったが、長崎で汽船1隻を購入の予定であったところ.上海まで行って、7隻も購入する.

当然資金が問題になるが、担当は土佐から連れてきた岩崎弥太郎である.

ただ、土佐藩は藩外とのコネクションが不足である.

龍馬にはそれがある.

半年後の1867年2月、後藤、龍馬はついに会談し、共同で活動を行うことで意見が一致する.

龍馬は正式の藩士ではないが、土佐藩の後ろ盾ができ、薩長と対等な応対が可能になる.

 

 

また、これまで亀山社中は、薩摩藩の手当を受けていた.

土佐藩の正式外郭団体となった海援隊に、後藤は1万両を拠出し、手当も出す.

後藤は、龍馬のかつての師である武市半平太を追放し、切腹に追い込んだ人物である.

しかし、互いにそれには触れない.

龍馬の第八の教訓は、大仕事をなすときは、権力、財力を持つ機関を、対等な立場を持って利用するということである.

 

リンク:龍馬のレポート1 集団と個人

    龍馬のレポート 3

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(おわり)

2016年10月19日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

54 龍馬のレポート 1:河田小龍、武市半平太、集団と個人

高知と言えば、坂本龍馬である.

空港を始め、居酒屋、ラーメン、学校、タクシーなどなど、「龍馬」の名を被せた施設は、県内至る所に見受けられる.

イベントがあれば、龍馬の着ぐるみが出てくる.

今では龍馬は、高知の観光イメージキャラクターに過ぎないように思われる.

しかし、龍馬は高知に何を教えるのか.

考え直してみよう.

 

2017年10月14日 改訂版

 

katurahamaryouma

(桂浜)

 

1.打って出る

 

龍馬は1835年、裕福な家の次男坊として生まれた.

18歳のとき、江戸へ留学に向かった.

剣術修行ではあるが、当時実用的な剣術はほとんど不要であった(後の動乱の時代で有効になるが).

今でいえば、サッカーのスポーツ留学のようなものである.

身分制など、何かと束縛の多い高知を脱出する.

政経の中心で自由に生活し、部活に励むことに心は踊ったであろう.

しかもこの年、黒船が来航し、江戸、そして日本は混乱の時期になる.

龍馬は、高知では決して体験ができない、新しい世界に触れる.

龍馬の第一の教訓は、見知った土地に留まらないということである.

今、東京は近過ぎて、龍馬のように別の世界に触れることにはならない.

海外である.

それも激動の地域でなくてはならない.

北京は候補の一つかもしれない.

 

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(高知港.クルーズ船の来航)

 

2.変化を捉える

 

龍馬は江戸に居るときには、外人が来れば首を打ち取る!など、世間並の発言をしていた.

1年後に高知に戻った.

河田小龍を訪ねる.

 

 

小龍は、ジョン万次郎からアメリカの事情を詳しく聞き、著書にしている.

-日本はガラパゴスである-

また、肥前藩の技術を継承した、薩摩藩に反射炉技術を学んでいる.

-藩体制の否定である-

洋式の汽船と航海術を取りいれることが急務であると主張している.

-技術革新である-

さらに、土佐藩では防衛に不足があるとして、農民から民兵を募っていた.

-武士の否定である-

世の中は、江戸の単純な「世論」のようには動いていないことを認識する.

龍馬の第二の教訓は、表面的な世論に惑わされず、その底に潜む変化を読み取るということである.

 

nakahamanomati

(ジョン万次郎が生まれた中浜)

 

3.集団と個人

 

問題意識はあっても、一人では進展しない.

龍馬は、城下で道場を開いていた、6歳年上の武市半平太のグループに加わる.

後に土佐勤王党となるが、秘密結社めいたものではない.

土佐藩の方向は、守旧、革新と揺れていたので、反体制ということでもない.

200名くらいのメンバーがいたが、必ずしも考えや行動が統一されていなかった.

ただ、武士はほとんど居なかった.

制約に縛られない、野党グループといってよいであろう.

盟約書には勇ましく、攘夷(アンチグローバル)、尊王(打倒現体制)と書かれている.

しかし、龍馬はそれに取り組んではいない.

ただこれによって、土佐領内のみならず、長州人、薩摩人との交流が生まれる.

そして、集団を離れ、日本各地へ向かう.

龍馬の第三の教訓は、集団に属しても無定見に従うのではなく、利用するということである.

 

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(武市半平太旧宅)

 

4.ネットワーク

 

龍馬は最初の江戸行きから2年後、21歳で再び江戸に向かい、2年後の1858年に帰る.

1861年、半平太の使いで、国境で長州人と会う.

その際、藩には丸亀に剣術勉強で赴くと届けた.

しかし、出てしまえば勝ちで、長州、大阪を回って帰る.

1年後、半平太は龍馬を長州に派遣し、長州人、薩摩人と連絡を取らせる.

龍馬はさらに、京、大阪を回って3ヶ月後、3月1日に高知に帰り、半平太に報告する.

そして、3週間後、3月24日に脱藩し、長州に至る.

藩命の制約、半平太のメッセンジャーには飽き足らず、自由な立場での行動をとる.

 

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(梼原.脱藩の道)

 

龍馬は各地を巡った際、すでに脱藩の意思を固め、手はずを整えていたと思われる.

同志の強いサポートと周到な準備の下で行われている.

そうでなければ、高知城下から山道と船によって、6日間で長州に達することはできない.

また、予め長州と話しをつけておかなければ、潜入はできない.

龍馬は、長州から薩摩に向かうが、関所で拒否された.

その後、大阪から江戸に向かう.

 

 

 

何が龍馬をあちこちに駆り立てたのか.

「何でも見てやろう」なのか、「自分探しの旅」なのか.

いずれにしても、この間で次第に人脈は増して行く.

龍馬は、「茫洋としている」「遠慮がない」「ゆっくり話す」「愛すべき人」「本は読まない」などと評されている.

目から鼻に抜ける鋭利さは伺えないし、色黒で、イケメンでもない.

話し手が気を許して、つい本音を話してしまう、というタイプである.

龍馬の第四の教訓は、現場を足で回って、人的ネットワークを増す、ということである.

 

関連記事リンク:

龍馬のレポート 2

高知の雪国、梼原

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(おわり)

2016年10月9日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

53 高知の東端:野根、甲浦とこけら寿司

高知県で、もっとも東に位置するのは、東洋町である.

室戸岬のまだ先で、ほとんど徳島県と言ってもよい.

高知市から南へ室戸に1時間半、岬を回って向きを変え、北にさらに1時間で達する.

しかし、走っている高速バスでは、高知市より大阪に近い.

「東洋町」とは大きく出た名だが、野根と甲浦が合併してできた.

どちらに役場を置くかで揉め、当初2年ごとに、両集落を代わる代わる移動していた.

新庁舎を中間に建設し、決着した.

 

2017年3月31日 修正版

 

 

1.室戸から北へ

 

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(岬を回って)

 

室戸から野根へ、25kmの国道は、すべて海岸の断崖を削ってつくられている.

昔はこの道はなかったから、遍路は波打際の岩を越え、石を伝って歩いた.

波が高いとさらわれる危険がある.

今でも海が荒れると、波は国道まで越えて来る.

ガードレールはすっかり錆びている.

断崖がつきたところが野根である.

 

⒉ 野根

 

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(野根の旧道)

 

野根は、参勤交代に利用された「野根山街道」の古い宿場町である.

町の両端は鍵の手に曲がる「桝形」になっていて、その面影を残している.

古い旅館もそのままである.

野根から室戸へ向かう遍路は、海が穏やかでないと、波打際を歩けない.

そのため、荒れたときは、7日も10日も「潮待ち」をしなくてはならなかった.

懐の乏しい遍路を、無料で泊める「善根宿」が多かったと伝えられる.

その間、遍路も農作業や薪割りを手伝ったことであろう.

家の前に、小さなベンチがあって、お年寄りが集まっている.

もとは雨戸を下ろして座る「ばったり」であった.

道に沢山の花の鉢があって、おばあさんが横に座っている.

花の出張販売だった.

おじいさんは、鉢を運んだ軽トラの棚に板を敷き、昼寝中である.

 

3.野根の朝市

 

野根には「道の駅」的な設備がない.

そこで、地元のご婦人方が、土曜の午前に「朝市」を開いている.

予約していた「こけら寿司」と野菜を買った.

 

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(野根の朝市)

 

カメラを持っていたので、「写すのかと思った」と言われた.

「写します、写します」とカメラを向けた.

「撮らないで!」と言われたが、広告にもなるし、ま、いいか.

 

4.こけら寿司

 

kokerazusi

(こけら寿司)

 

この地特有の押し寿司である.

柚子酢の寿司飯に、焼きサバをほぐして入れる.

まず木枠に1段目を詰め、椎茸、人参、薄焼き卵の具材を並べ、人参の葉を散らす.

上に細長い薄い板(こけら)を敷く.

このようにして順次5、6段詰め、重しを乗せ、1時間ほど置く.

大きい枠では、1段に1升詰まる.

生ものを使わない、素朴なベジタブル食である.

重石が中途半端ではないので、「投げても壊れない」と言われるほど堅く、相当に食べでがある.

 

5.生見のサーフィン

 

北に行くと、生見(いくみ)である.

サーフィンで有名である.

高知では他に、仁淀川河口、大月から四万十川河口にかけて、サーフィンビーチが多い.

しかし遠いから、地元民が中心である.

生見は大阪に近いので、賑わっている.

 

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(生見のサーファー)

 

残念ながら、今日は波が穏やか過ぎる.

町では、ネットに浜の波をリアルタイムで流している.

 

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(生見の店)

 

サーファーのための民宿や食堂が何軒かある.

海を見渡すウッドデッキなど並び、湘南海岸もかくや、の風景である.

大渋滞はないが.

 

6.甲浦

 

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(白浜)

 

さらに北に行くと甲浦である.

入江にある遠浅の浜は、海水浴場になっている.

今はシーズンオフだが、真夏でもそう変わりはない.

高知は甲浦から足摺まで、すべて海に面している.

どこかで何かのマリンスポーツができる.

 

kanouraport

(甲浦港)

 

高知市内から甲浦まで車で2時間半、高知の辺境のように思われる.

しかし、実は高知県でもっとも大阪に近い.

甲浦から大阪へ、一日に5-6便ある徳島経由の高速バスで4時間半、高知からは5時間である.

昔、橋のない頃、甲浦には大阪からの船が発着し、高知の東の窓口であった.

フェリーの岸壁、昔賑わったであろう、食堂や商店の建物が残っている.

今はダイビングや釣りの渡船の店である.

 

7.野根山街道

 

地図を見ると、高知市から甲浦まで、室戸岬を回って、三角形の二辺を通っていることになる.

ショートカットして、底辺を通れないのか.

それをやっているのが、江戸時代の野根山街道である.

 

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(野根から旧街道方面を見る)

 

奈半利から山に登り、尾根筋を通って、野根に降りる.

今も登山道だが、全行程は35kmあり、ハードである.

古道だけに、笑い栂、宿屋杉、お産杉、装束峠、花折峠など、伝説の場所が多い.

 

 

尾根筋の下を林道が通じているので、そこから探訪することも可能である.

また川に下り、ショートカットする国道もある.

大体は広いのだが、なにせ山の道で曲がりくねっているので、時間短縮にはならない.

四郎ヶ野峠を下ると、小川川が音を立てて流れている.

 

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(小川川)

 

関連記事リンク:室戸の街と岬

        高知で地震を避難1:100年周期

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(おわり)

 

2016年9月22日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

52 高知の変な施設 2、こんなところに? 映画館、温泉、美術館、公園

高知のこんなところに…こんなものが….

とんでもないところに、とんでもないものがある.

考えられないところに、映画館、温泉、美術館、公園.

みな手造りである.

つくりたくなれば、自分でつくる…高知である.

いごっそう、はちきんの産物である.

 

(2017年8月18日 修正版)

 

1.映画館

 

室戸に向かう国道を1時間、左折して鮎で名高い安田川を遡る.

渓流に沿って2kmほど行くと、橋を渡るよう小さな看板がある.

映画館、大心劇場の入口である.

 

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(大心劇場.豪雨で増水中)

 

どうしてここにあるのか、わからない.

館主は、高知各市町村のご当地ソングをつくって活動するミュージシァンである.

もぎり、内装など、館主の手づくりである.

 

daisinnaibu

(客席)

 

毎日の上演はないが、思い出したように、というほどでもない.

固定客もいる.

フィルム映写機があり、大体は「ひばりの…」など昔の映画である.

プロジェクターがあるので、デジタル新作も扱う.

特攻を扱った作品が上映された.

内容は地味だが、高知出身の三山歌手が出演するシーンがある.

一日2回、1週間の興行が満席で、当館開設以来の入りだったらしい.

 

⒉ 手造り温泉

 

高知には、道後のように自然に湧く温泉はない.

しかし、深くボーリングして湧出する温泉、冷泉を沸かした温泉はあちこちにある.

山里温泉旅館もその一つである.

 

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(山里温泉)

 

須崎から国道を行き、山にそれる.

人家が途絶え、狭い山道で、この先で営業しているのか不安になる.

やがて古い看板が現れ、橋を渡って、木立の中に旅館が見える.

ラプラドルが盛大に吠えて迎える.

最近、中国の団体やフランス人が来たそうだが、「秘境の旅」だったのだろうか.

浴場は谷にある.

 

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(浴場)

 

日曜大工で、河原の石をセメントで固めた、凸凹の浴槽、洗い場である.

建物は失礼ながら掘立小屋で、随所から空が覗く.

主人が何としても、ここで風呂に入りたかったのであろう.

泉源からパイプで引き、薪で沸かしてタンクに貯める.

林間に薪の燃える匂いがしている.

高知には、交代で入る林の中の桧風呂、穴蔵の奥にある岩風呂、など自己主張の温泉があった.

廃業や改築でなくなったので、今はここが「とんでも温泉ランキング第一位」である.

 

3.美術館

 

白木谷は、梅林、そして切り口が四角の四方竹の産地として有名である.

高知市の東北になる山の中である.

小学校は残り、全校生徒24人でがんばっている.

そこに「白木谷国際現代美術館」がある.

 

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(美術館)

 

つくったのは、M.T氏である.

この地で工務店をやりながら、前衛絵画を描いていた.

しかし、絵では物足りなくなり、海岸で200トンの玉石を譲り受け、ここにインスタレーションをつくった.

ところが、そのままでは草に埋もれてしまう.

それなら、いっそ美術館をつくる、と思い立った.

 

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(美術館内部.壁の人物が作者)

 

川沿いの倉庫を拡張し、家族、知人で建設を行った.

今も年々、新築、改築が続いている.

美術館そのものが作品である.

壁、柱こそむき出しだが、元工務店主だけに、構造は本格的である.

基礎のコンクリートも普通の倍は入っているという.

 

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(展示室の一部)

 

自作以外に、美術展の出展作、しかし始末に困る?大作の展示場ともなっている.

ピアノがあり、ジャズセッション、演奏会も開かれる.

 

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(工事中? いや制作中)

 

美術館には屋外展示場があるが、いま、その川向うで制作が進んでいる.

作者が鉄筋を溶接中で、順次道路から、生コンをコンクリートポンプ車で圧送する.

鉄筋は太く、県道の橋脚工事と言っても、だれも疑わないであろう.

野外ステージとしても使えるようにするらしい.

今は仮橋だが、いずれ本格的架橋?の制作が進むと思われる.

 

 

4.トンボ公園

 

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(公園の保護区)

 

高知県の西、中村にあるトンボ公園は、公式ガイドブックにも載っている施設である.

場所は、中村市街地の四万十川対岸で、とんでもないところではない.

施設はトンボの標本を始めとした資料館、川魚を中心とした水族館からできている.

そして、谷に沿って1km近く奥に延びる「トンボ保護区」がある.

四万十川と自然は結びつくものの、どうしてここに「トンボ」なのだろうか.

 

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(トンボ保護区)

 

施設は市がつくったものでも、県がつくったものでもない.

創設者のS氏の想いである.

S氏は地元のトンボ少年であった.

高校3年のとき、かねて観察を続けてきた、ある種の生息地が工事で埋め立てられてしまった.

そこで、保護地をつくる、と決意したのである.

今は社団法人で、WWF、市、県の援助もあるが、基本はトンボを愛する人たちの支援である.

最近、自宅付近で、以前は見なかった、オニヤンマなどが飛ぶようになった.

耕作放棄地が増え、農薬の使用が減ったためらしい.

しかし、積極的に保護し、育てようとすれば、場所を自然にまかせて放置する、というものではない.

茂る草を刈り、湿地を維持する、地道で苦労の多い作業が必要である.

その甲斐があって、いま70種類以上が生育している.

見たことがない、クリーム色の細いトンボが飛んできた.

 

 

関連記事リンク:

こんなところに… 1 庭園、本屋、パン

国道「よさく」1、モノレールと京柱峠

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(おわり)

2016年9月8日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

51 高知の変な店 1、こんなところに?カフェ、蕎麦、書店、ベーカリー

高知のあちこちを歩くと、こんなところに…なぜこんな店が…と思うことがある.

出店への理屈はない.

経営学者が唱える、マーケティングや地域政策を越えた存在である.

これには二つの理由がある.

第一に、ぜひそこに住みたい.

第二に、ぜひこの仕事をしたい.

この二つが両立されるとき、高知のとんでもないところに、とんでもない店ができる結果になる.

これは、他の四国3県には見られない、高知に特有の「現象」ではないか.

よそでは商売、実利が先で、「理屈抜き」は考えられない.

 

2017年8月18日 修正版

 

 

1.山北

 

山北はごめん・なはり線、野市駅から車で約10分のところにある.

高知で「みかん」と言えば、ここの「山北みかん」である.

緩い南斜面に、「みかんの花咲く丘」が連なる.

季節には、大規模なみかんの「良心市」が設けられ、無人のスタンドで百円玉を投入し、みんな大袋単位で買う.

 

⒉ イングリッシュガーデン

 

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(イングリッシュガーデン)

 

高知で「イングリッシュガーデンに行った」といえば、「英国旅行で公園巡りをした」ということではない.

山北の「イングリッシュガーデン」である.

もともとは文旦農家だが、一室はカフェで、モーニングやランチがある.

薔薇のシーズンは大変賑わう.

薔薇を沢山育てたいね、の思いが始まりらしい.

訪問者が来るようになり、イングリッシュガーデンみたいだね、ということで、今の姿になっている.

下には、ご家族のチェロ製作工房がある.

 

3.蕎麦

 

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(蕎麦屋、わび助)

 

蕎麦屋がある.

山葵を自分でおろして、手打ち蕎麦をいただく.

ご主人は陶芸をやるのか、立派な煙突があり、蕎麦は作品と共に出てくる.

丘には、他にも和風カフェや喫茶店がある.

秋には、斜面一帯につくられた、個人の懸崖菊園が公開される.

これらの住まいは、見晴らしの良いみかん畑の中に、ばらばらにある.

家を建てたとして、せっかく良いところにあるのだから、だれか来て欲しいという気になる.

「何かしたくなる」土地なのである.

 

4.美良布

 

美良布(びらふ)は、土佐山田駅からJRバスで20分のところである.

なぜJR(以前は国鉄バス)かというと、鉄道を敷く計画があり、実現しなかったので、代行として走らせている.

物部川のダム湖に沿うが、山間の殺伐とした湖と違って、昔から住まれた河岸段丘が湖岸になり、自然の湖の雰囲気である.

北岸は国道が通り、交通量が多いが、南岸は静かである.

湖岸の魅力的な土地だが、それだけにカフェの激戦区で、営業を止めたところを含むと5軒ある.

 

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(元カフェ、ぷー・タロ.今はハーブ入生姜シロップを生産)

 

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(レストラン、オーチョ)

 

自家製の卵を使ったレストランがある.

切って食べる大型プリンも、なかなかである.

昼下がり、近くの老婦人たちがコーヒーを飲みに来るのは、高知伝統の「喫茶店」でもある.

 

5.谷相

 

美良布から山に上がると谷相(たにあい)である.

コミュニティバスはあるが、通学用で便利は悪い.

上がってしまえば、トレッキング気分で歩くことができる.

 

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(谷相)

 

いろいろの人が外から来て住んでいる.

染色、織物、陶芸、紙漉きの工房があり、営業していないが、ハーブ園もある.

 

 

次の理由があるだろう.

・南斜面で、遠く西に開け、見晴らしがよい

・棚田があり、「日本の原風景」だが、高知空港に40分と近い

・複雑な地形で、思い思いのところに住居が建てられる

・周辺にアンパンマンミュージアム、高知工科大学があり、文化的雰囲気がある

谷相は「何かしたい人が集まる」場所である.

 

6.山の本屋

 

honyasanmisesaki

(本屋の入口)

 

もっとも高く、行き止まりのところに、書店、うずまき舎がある.

暮らし、自然を中心にした古書店だが、コミックもある.

しかし一癖ある選書で、女店主の個性が伺われるというものである.

 

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(本屋の中)

 

山上でゆっくり本を選ぶ、外にはない楽しみである.

 

7.ベーカリー

 

梼原は、高知市から一日6本のバスで3,4時間かかる、山間の町である.

そこからさらに谷川の狭い道を行くこと3,40分、ベーカリー、シェ・ムアが忽然と現れる.

「国道」に面しているのだが、名高い「酷道」439号(よさく)である.

町々を往来したり、観光客が通るような道ではない.

 

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(国道439号)

 

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(山のパン屋)

 

田舎のパン屋というと、食パンにあんパン、カレーパンとなるが、そうではない.

バゲットを始めとした、「正統フランスパン」である.

大体、店名、看板はフランス語である.

スイーツ、ランチも洒落ている.

 

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(パン店の中)

 

ご主人はこの地の出身だそうで、娘さん共々フランスに長期滞在した結果である.

東京近郊の住宅地などにあっても、おかしくない雰囲気といえよう.

といって、お高く留まっている、ということではない.

店は随分前からあるし、作業服の男性、軽のお母さんなど出入りしている.

 

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こんなところに?2 映画館、美術館…

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(おわり)

 

2016年8月26日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

50  高知で地震を避難 3:安政地震、昭和地震、永長・康和地震タイプで発生するとき

高知のテレビでは毎日、地震に対する準備、心構えが放映される.

過去の地震はまず東海で発生し、次に南海に波及している.

1707年の宝永地震のように、東海、南海が分単位の差で発生する場合の逃げ方は、その2で考えた.

しかし、同時発生とは限らない.

時間遅れ、年遅れの場合もある.

 

2017年3月15日 修正版

 

 

1.東海、南海に時間差があるとき

 

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(津波避難タワー、仁淀川河口)

 

宝永パターンでは、南海地震の警報を待つことなく、東海地震の発生情報をいち早く入手し、ただちに避難行動を取ることとした.

かねて目星をつけておいた場所に逃げ、スマホの画面で、報じられる東海の状況に見入る.

しかし、南海地震は起きない.

よかった、と胸をなで下ろし、家に戻って、お茶でも飲んでテレビを見るかと思う.

ところが、これは大変危険である.

 

⒉ 安政地震

 

それは、1854年の安政地震では、南海は東海の38時間後に発生しているからである.

発生原因は違うが、2016年の熊本地震では、第一、第二の間隔が28時間であった.

過去の地震の歴史でも、「ひとまず安心」を裏切るパターンが結構多い.

それは岩石が粘弾性の性質を持っているからである.

ゴムひもの端に錘を付け、ぶら下げる.

すぐには切れないが、そのまま吊るしておくと、少しづつ伸びてやがて切れる.

これが粘弾性である.

岩盤は堅そうだが、やはりこの性質があり、力がかかってもすぐに壊れるとは限らない.

時間が経ってからになるので、そこに油断が生まれる.

安政東海地震は、12月23日午前9時の発生である.

その日南海では何もなく一日が過ぎる.

翌24日、朝、昼とも異常なし.

夕方午後4時になって、南海地震の激しい揺れ、そして津波が襲う.

 

kesennumaima

(地震後バス化された気仙沼駅)

 

3.安政パターンへの対応

 

宝永パターンを恐れ、着のみ着のままで第一の避難場所に逃げた.

しかし、そこで南海地震が起きなければ、第二の避難を考える必要がある.

安政は38時間後だが、一応48時間、二昼夜の避難を目途としよう.

一旦家に戻り、急いで食料、飲水を取り出す.

車で逃げることも考えられる.

 

エコノミー症候群があるから、かねて買っておいた簡易テントや寝袋を持つ.

しかし、欲張ってあれもこれもはよくない.

38時間とは限らない.

5時間後、10時間後かもしれない.

注意しなくてはならないのは、パニックの発生である.

次々報じられる東海の惨状、津波の映像は、ショックを与える.

テレビのコメント、行き交うネット情報は、すぐにもの南海地震発生を感じさせる.

我先に逃げる車で渋滞ができ、下手をすると、最悪の条件で揺れと津波を迎えることになりかねない.

パニックに巻き込まれない避難が必要である.

 

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(高知コアセンター.深海で採掘された資料.南海トラフも研究対象である)

 

4.昭和および永長・康和パターン

 

ところが、48時間経っても南海地震は発生しなかった.

50時間後ということもあり得るが、第三の年遅れ、昭和(および永長・康和)パターンに入ったと考える.

昭和では、東海地震は11月24日に発生した(永長・康和は12月27日).

年末年始を過ぎるが、南海には異常がなく、春を迎える.

翌年の秋冬も地震は起きない.

翌々年の冬になる.

12月21日、南海地震が発生する(永長・康和は少し遅く、その冬の2月22日).

 

5.昭和パターンからの避難

 

sagahinannro

(土佐佐賀.津波高さ34.4mの予測だが、伊豆の下田も33mである)

 

東海が起きてから、南海が起きるまで、どのように過ごすか.

2年間テント生活は考えられない.

江戸時代以前では、天命として、破壊と復旧を繰り返すのみであった.

昭和では、戦争と敗戦を挟む、情報と行動が遮断された時期であった.

しかし現代では間隔が長いと、いろいろな事案が出てきて、社会的な問題が多くなる.

火山活動が活発になった麓の村のようなものであるが、収束はあり得ず、地震は必ず起こる.

1)臨戦態勢で臨む

いつでも秒単位で避難できるように構える.

戸棚は全部倒す.

テレビは床に置いて固定する.

頑丈な机を置き、室内に避難シエルターを設ける.

2)疎開をする

断層地震から相当経った地域は歪が解放されているから、淡路島など考えられるが、遠い.

高台で耐震性がある建物、たとえば、学生用ワンルーム、マンスリーマンションなど考えられるが、お金はかかる.

いずれ「仮設住宅」を建てることは間違いないのだから、前もって「疎開住宅」があれば多目的に使える.

いずれにせよ、厳戒態勢や疎開は9月から3月までの半年で、春になれば戻る.

 

nisibunyougan

(西分漁港.フィリピンプレートで赤道から運ばれてきた溶岩)

 

大変なようだが予測ができる.

突然に強烈に襲う直下型地震、揺れから3分で津波が来る地域より、ずっと安全である.

 

6.地震後の高知

 

この地震後に、高知に再び地震が起こるのは100年後である.

東北のように、急いで堤防の嵩上げ工事をする必要は全くない.

フィリピンプレートが、大地に楔のように打ち込まれ、地震を寄せ付けない.

広く開かれた土佐湾には、他所から津波が来ることもない.

高知は、日本一安全な土地になる.

高知の黄金時代が待っている.

 

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(建設中の防波堤、盛、2016年)

 

リンク:高知で地震を避難 1

    高知で地震を避難 2

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参考にした文献

・尾池和夫:「2038年 南海トラフの巨大地震」、マニュアルハウス、2015

・山岡耕春:「南海トラフ地震」、岩波新書、2016

・寒川 旭:「地震の日本史」、中公新書、2011

・鈴木堯士:「四国はどのようにしてできたか」、南の風社、1998

・佐野貴司:「超巨大火山」、講談社ブルーバックス、2015

・気象庁ホームページ

・国土地理院ホームページ

・高知新聞

・Wikipedia

 

(おわり)

2016年8月18日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一